ざしているのと、わたしが先輩として常に彼を尊敬しているからでした。わたしも将来は弁護士として世間に立つつもりで勉強中の身の上ですから、自分よりも年上の彼に対して敬意を払うのは当然です。単に年齢の差があるばかりでなく、その学力においても、彼とわたしとは大いに相違しているのでした。山岸は法律上の知識は勿論、英語のほかにドイツ、フランスの語学にも精通していましたから、わたしはいい人と同宿したのを喜んで、その部屋へ押しかけて行っていろいろのことを訊くと、彼もまた根《こん》よく親切に教えてくれる。そういうわけですから、山岸という男はわたしの師匠といってもいいくらいで、わたしも彼を尊敬し、彼もわたしを愛してくれたのです。
 唯ここに一つ、わたしとして不思議でならないのは、その山岸がこれまでに四回も弁護士試験をうけて、いつも合格しないということでした。あれほどの学力もあり、あれほどの胆力もありながら、どうして試験に通過することが出来ないのか。わたしの知っている範囲内でも、その学力はたしかに山岸に及ばないと思われる人間がいずれも無事に合格しているのです。勿論、試験というものは一種の運だめしで、実力の優《まさ》ったものが必ず勝つとも限らないのですが、それも一回や二回ではなく、三回も四回もおなじ失敗をくり返すというのは、どう考えても判りかねます。
「わたしは気が小さいので、いけないんですね。」
 それに対して、山岸はこう説明しているのですが、わたしの視るところでは彼は決して小胆の人物ではありません。試験の場所に臨んで、いわゆる「場打《ばう》て」がするような、気の弱い人物とは思われません。体格は堂々としている。弁舌は流暢である。どんな試験官でも確かに採用しそうな筈であるのに、それがいつでも合格しないのは、まったく不思議と言うのほかはありません。それでも彼は、郷里から十分の送金を受けているので、何回の失敗にもさのみ屈する気色《けしき》もみせず、落ちつき払って下宿生活をつづけているのです。わたしは彼に誘われて、ここの鰻の御馳走になったのは、今までにも二、三回ありました。
「君なぞは若い盛りで、さっき食った夕飯なぞはとうの昔に消化してしまった筈だ。遠慮なしに食いたまえ、食いたまえ。」
 山岸にすすめられて、私はもう遠慮なしに食い始めました。ともかくも一本の酒を注文したのですが、二人ともほとんど飲まないで、唯むやみに食うばかりです。蒲焼の代りを待っているあいだに、彼は静かに言い出しました。
「実はね、わたしは今年かぎりで郷里へ帰ろうかと思っていますよ。」
 私はおどろきました。すぐには何とも言えないで、黙って相手の顔を見つめていると、山岸はすこしく容《かたち》をあらためました。
「甚だ突然で、君も驚いたかも知れないが、わたしもいよいよ諦めて帰ることにしました。どう考えても、弁護士という職業はわたしに縁がないらしい。」
「そんなことはないでしょう。」
「私もそんなことはないと思っていた。そんな筈はないと信じていた。幽霊がこの世にないと信じるのと同じように……。」
 さっきも幽霊と言い、今もまた幽霊と言い出したのが、わたしの注意をひきました。しかし黙って聴いていると、彼は更にこんなことを言い出しました。
「君は幽霊を信じないと言いましたね。わたしも勿論、信じなかった。信じないどころか、そんな話を聴くと笑っていた。その私が幽霊に責められて、とうとう自分の目的を捨てなければならない事になったんですよ。幽霊を信じない君たちの眼から見れば、実にばかばかしいかも知れない。まあ、笑ってくれたまえ。」
 わたしは笑う気にはなれませんでした。山岸の口からこんなことを聞かされる以上、それには相当の根拠がなければならない。といって、まさか幽霊などというものがこの世にあろうとは思われない。半信半疑でやはり黙っていると、山岸もまた黙って天井の電燈をみあげていました。広い二階に坐っているのはわれわれの二人ぎりで、隅々からにじみ出して来る夜の寒さが人に迫るようにも思われました。
 しかし今夜もまだ九時ごろです、表には電車の往来するひびきが絶えずごうごうと聞えています。下では鰻を焼く団扇《うちわ》の音がぱたぱたと聞えます。思いなしか、頭の上の電燈が薄暗くみえても、床の間に生けてある茶の花の白い影がわびしく見えても、怪談らしい気分を深めるにはまだ不十分でした。もちろん山岸はそんなことに頓着する筈もない、ただ自分の言いたいだけの事を言えばいいのでしょう。やがて又向き直って話しつづけました。
「自分の口から言うのも何だが、わたしはこれまでに相当の勉強もしたつもりで、弁護士試験ぐらいはまず無事にパスするという自信を持っていたんですよ。うぬぼれかも知れないが、自分ではそう信じていたんです。」
「そり
前へ 次へ
全10ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング