ゃそうです。」と、私はすぐに言いました。「あなたのような人がパスしないという筈はないんですから。」
「ところが、いけないからおかしい。」と、山岸はさびしく笑いました。「君も御承知だろうが、ことしで四回つづけて見事に失敗している。自分でも少し不思議に思うくらいで……。」
「私もまったく不思議に思っているんです。どういうわけでしょう。」
「そのわけは……。今も言う通り、わたしは幽霊に責められているんですよ。いや、実にばかばかしい。われながら馬鹿げ切っていると思うのだが、それが事実であるからどうにも仕様がない。今まで誰にも話したことはないが、わたしが初めて試験を受けに出て、一生懸命に答案を書いていると、一人の女のすがたが私の眼の前にぼんやりと現われたんです。場所が場所だから、女なぞが出て来るはずがない。それは痩形で背の高い、髪の毛の白い女で、着物は何を着ているかはっきりと判《わか》らないが、顔だけはよく見えるんです。髪の白いのを見ると、老人かと思われるが、その顔は色白の細おもてで、まだ三十を越したか越さないか位にも見える。そういう次第で、年ごろの鑑定は付かないが、髪の毛の真っ白であるだけは間違いない。その女がわたしの机の前に立って、わたしの書いている紙の上を覗き込むようにじっと眺めていると、不思議にわたしの筆の運びがにぶくなって、頭もなんだか茫として、何を書いているのか自分にも判らなくなって来る……。君はその女をなんだと思います。」
「しかし……。」と、わたしは考えながら言いました。「試験場には大勢の受験者が机をならべているんでしょう。しかも昼間でしょう。」
「そうです、そうです。」と、山岸はうなずきました。「まっ昼間で、硝子窓の外には明るい日が照っている。試験場には大勢の人間がならんでいる。そこへ髪の毛の白い女の姿があらわれるんですよ。勿論、他の人には見えないらしい。わたしの隣りにいる人も平気で答案を書きつづけているんです。なにしろ、私はその女に邪魔をされて、結局なんだか判らないような答案を提出することになる。何がなんだか滅茶苦茶で、自分にも訳が判らないようなものを書いて出すのだから、試験官が明き盲でない限り、そんな答案に対して及第点をあたえてくれる筈がない。それで第一回の受験は見ごとに失敗してしまった。それでも私はそれほどに悲観しませんでした。元来がのん気な人間に生れ付いているのと、もう一つには、幸いに郷里の方が相当に暮らしているので、一年や二年は遊んでいても困ることはないという安心があったからでした。」
「そこで、あなたはその女に就いてどう考えておいでになったんです。」
「それは神経衰弱の結果だと見ていました。」と、山岸は答えました。「幾らのん気な人間でも、試験前には勉強する。殊にその当時は学校を出てから間もないので、毎晩二時三時ごろまでも勉強していたから、神経衰弱の結果、そういう一種の幻覚を生じたものだろうと判断しました。したがって、さのみ不思議とも思いませんでした。」
「その女はそれぎり姿を見せませんでしたか。」と、わたしは追いかけるように訊いた。
「いや、お話はこれからですよ。その頃わたしは神田に下宿していたんですが、何分にも周囲がそうぞうしくって、いよいよ神経を苛立《いらだ》たせるばかりだと思ったので、さらに小石川の方へ転宿して、その翌年に第二回の試験を受けると、これも同じ結果に終りました。わたしの机の前には、やはり髪の白い女の姿があらわれて、わたしが書いている紙の上をじっと覗いているんです。畜生、又来たかと思っても、それに対抗するだけの勇気がないので、又もや眼が眩《くら》んで、頭がぼんやりして、なんだか夢のような心持になって……。結局めちゃめちゃの答案を提出して……。それでも私はまだ悲観しませんでした。やはり神経衰弱が祟っているんだと思って、それから三月ほども湘南地方に転地して、唯ぶらぶら遊んでいると、頭の具合もすっかり好くなったらしいので、東京へ帰って又もや下宿をかえました。それが現在の堀川の家で、今までのうちでは一等居ごころのいい家ですから、ここならば大いに勉強が出来ると喜んでいると、去年は第三回の受験です。近来は健康も回復しているし、試験の勝手もよく判っているし、今度こそはという意気込みで、わたしは威勢よく試験場へはいって、答案をすらすらと書きはじめると、髪の白い女が又あらわれました。いつも同じことだから、もう詳しく言うまでもありますまい。わたしはすごすごと試験場を出ました。」
あり得《う》べからざる話を聴かされて、わたしも何だか夢のような心持になって来ました。そこへ蒲焼のお代りを運んで来ましたが、わたしはもう箸をつける元気がない。それは満腹の為ばかりではなかったようです。山岸も皿を見たばかりで、箸をとりませ
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