かすということもなしに、四谷見附までぶらぶら歩いて行きましたが、帰りの足は自然に早くなりました。帽子もかぶらず、外套も着ていないので、夜の寒さが身にしみて来たのと、留守のあいだにまた何か起っていはしまいかという不安の念が高まってきたからです。家へ近づくにしたがって、わたしの足はいよいよ早くなりました。裏通りへはいると、月のひかりは霜を帯びて、その明るい町のどこやらに犬の吠える声が遠くきこえました。
堀川の家の門《かど》をくぐると、わたしは果して驚かされました。わたしが四谷見附まで往復するあいだに、伊佐子さんは劇薬を飲んで死んでしまったのでした。山岸はまだ帰りません。その明き部屋へはいり込んで、伊佐子さんは自殺したのです。その帯のあいだには母にあてた一通の書置を忍ばせていて、「わたしは山岸という男に殺されました」と、簡単に記《しる》してあったそうです。奥さんもびっくりしたのですが、なにしろ劇薬を飲んで死んだのですから、そのままにしておくことは出来ません。わたしの帰ったときには、あたかも警察から係官が出張して臨検の最中でした。
猫の死んだ一件を女中がうっかりしゃべったので、帰るとすぐに私も調べられました。そこへあたかも山岸がふらりと帰ってきたので、これは一応の取調べぐらいではすみません、その場から警察へ引致《いんち》されました。伊佐子さんは自殺に相違ないのですが、猫の一件があるのと、その書置に、「山岸という男に殺されました」などと書いてあるので、山岸はどうしても念入りの取調べを受けなければならないことになったのです。
警察の取調べに対して、山岸は伊佐子さんとの関係をあくまでも否認したそうです。
「ただ一度、ことしの夏の宵のことでした。わたしが英国大使館前の桜の下を涼みながらに散歩していると、伊佐子さんがあとからついてきて、一緒に話しながら小一時間ほど歩きました。そのときに伊佐子さんが、あなたはなぜ奥さんをお貰いなさらないのだと訊きましたから、幾年かかっても弁護士試験をパスしないような人間のところへ、おそらく嫁にくる者はありますまいと、わたしは笑いながら答えますと、伊佐子さんは押返して、それでも、もし奥さんになりたいという人があったらどうしますと言いますから、果してそういう親切な人があれば喜んで貰いますと答えたように記憶しています。ただそれだけのことで、その後に伊佐
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