岸さんが、なんでそんな怖ろしいことをするものですか。それはよく判っているのですけれど、伊佐子はふだんの気性にも似合わず、このごろは妙に疑い深くなって……。」
「ヒステリーの気味じゃあないんですか。」
「そうでしょうか。」と、奥さんは苦労ありそうに、眉をひそめました。
 伊佐子さんに対しては一種の義憤を感じていた私も、おとなしい奥さんの悩ましげな顔色をみていると、又にわかに気の毒のような心持になって、なんとか慰めてやりたいと思っているところへ、あたかも集配人がポストをあけに来たので、ふたりはそこを離れなければならないことになりました。
 そのときに気がついて見返ると、伊佐子さんが門口《かどぐち》に立って遠くこちらを窺っているらしいのが、軒燈の薄紅い光りに照らしだされているのです。わたし達もちょっと驚いたが、伊佐子さんの方でも自分のすがたを見付けられたのを覚ったらしく、消えるように内へ隠れてしまいました。

     五

 奥さんに別れて、麹町通りの方角へふた足ばかり歩き出した時、あたかも私の行く先から、一台の自動車が走ってきました。あたりは暗くなっているなかで、そのヘッド・ライトの光りが案外に弱くみえるので、私はすこしく変だと思いながら、すれ違うときにふと覗いてみると、車内に乗っているのは一人の婦人でした、その婦人の髪が真っ白に見えたので、わたしは思わずぞっとして立停まる間に、自動車は風のように走り過ぎ、どこへ行ってしまったか、消えてしまったか、よく判りませんでした。
 これはおそらく私の幻覚でしょう。いや、たしかに幻覚に相違ありません。髪の白い女の怪談を山岸から聞かされていたので、今すれちがった自動車の乗客の姿が、その女らしく私の眼を欺いたのでしょう。またそれが本当に髪の白い婦人であったとしても、白髪の老女は世間にはたくさんあります。単に髪が白いというだけのことで、それが山岸に祟っている怪しい女であるなどと一途《いちず》に決めるわけにはいきません。いずれにしても、そんなことを気にかけるのは万々《ばんばん》間違っていると承知していながら、私はなんだか薄気味の悪いような、いやな心持になりました。
「はは、おれはよっぽど臆病だな。」
 自分で自分を嘲りながら、私はわざと大股にあるいて、灯の明るい電車路の方へ出ました。ゆうべのような風はないが、今夜もなかなか寒い。何をひや
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