や茶碗などもころがっていた。
隣りは空家、又その隣りは吉原へ通《かよ》い勤めの独り者であるので、この二、三日来、虎七の家にどんなことが起っていたか近所でも知る者はなかった。しかも前後の事情は庄吉の聴かされた通りで、彼は延津弥を脅迫して、結局その手に殺されたのは明白であった。捕り方はさらに金龍山下にむかったが、延津弥の姿はやはり見いだされなかった。
中田屋の亭主の死は果して牡丹餅の中毒であるかどうか、それは解き難い疑問であるが、少くもそれから糸を引いて、千鳥の女房お兼と破落戸漢《ならずもの》の虎七とが変死を遂げたのは事実であった。二十九日の牡丹餅が怖るべき結果を生み出したのである。
長之助の千生の申立てはこうであった。
「わたくしの店から持って行った牡丹餅を食って、中田屋の旦那は死んでしまい、延津弥の師匠も患《わずら》って、その詮議がむずかしくなったと聞いて、わたくしは急に怖くなって家を逃げ出しました。師匠の円生のところへ行って相談いたしますと、ここで逃げ隠れをするのはよくない。自分におぼえのないことならば、当分は家にじっとしていて、なにかのお調べがあったらば正直に申立てろと教えられましたので、その気になって引っ返しましたが、どうも不安心でならないので、途中から又逃げました。今更おもえば重々《じゅうじゅう》の心得ちがいで、それがためにおふくろが殺されるようにもなったのでございます。
どう考えても、わたくしは馬鹿でございました。師匠の意見に従って、自分の家にじっとしていればよかったのですが、いったん姿をかくした以上、なおさら自分に疑いがかかったような気がしまして、七月から八月にかけて五十日ほどの間は所々方々《しょしょほうぼう》をうろ付いていました。まず小田原まで踏み出しましたが、箱根のお関所がありますので、熱海の方角へ道を換えて、この湯治場《とうじば》に半月ほども隠れていました。それから引っ返して江の島、鎌倉……。こう申すと、なんだか遊山《ゆさん》旅のようでございますが、ほかに行く所もなかったからでございます。
それから又、相模路から八王子の方へ出まして、そこに遠縁の者がありますので、脚気《かっけ》の療治に来たのだと嘘をついて、暫くそこの厄介になっていましたが、その化けの皮もだんだん剥げかかって来たので、そこにも居たたまれなくなって……。まあ、半分は逐《お》い出されたような形で、幾らかの路用《ろよう》を貰って江戸へ帰って参りました。
故郷の浅草へ帰りましたのは、八月十六日の晩で、それから真っ直ぐに家へ帰ればよかったのですが、なんだか閾《しきい》が高いので、ともかくもその後の様子を訊いてみようと思いまして、金龍山下の延津弥の家へこっそり尋ねて行きますと、師匠はよく帰って来てくれたと喜んで、すぐに二階へあげて泊めてくれました。そうして、四、五日厄介になっているうちに、延津弥が申しますには、わたしも中田屋の旦那に死に別れて心細い。どうぞこれからは力になってくれと口説かれまして……。まあ、夫婦のような事になってしまいましたが、延津弥はわたくしを家へ帰しません。
そのうちに判りましたのは、延津弥がわたくしのお袋をだまして、三十両ほどの金を巻き上げている事で……。延津弥はおふくろにむかって、こんなことを言っていたそうでございます。中田屋の旦那を毒害したなぞは、まったく覚えのないことだが、実は千生さんと私とは前々から深く言いかわしている。中田屋の一件とは別口《べつくち》で、千生さんは少し筋の悪いことがあって、当分は身を隠していなければならない。その隠れ家《が》は知れているが、今すぐに逢わせるわけには行かない。千生さんも小遣いに不自由しているようだから、金はわたしから届けてあげる。こう言って最初におふくろから十両の金を受取りまして、それから五十日のあいだに三両五両と四、五たびも引出しましたそうで……。それは延津弥が自分の口から話したのですから嘘ではございますまい。
わたくしもそれを知って、どうもひどい事をすると思いましたが、なにしろ延津弥とは夫婦同様になってしまったのですから、今さら開き直って女を責めるわけにも参りません。八月二十一日の晩に延津弥は日本橋の方へ行くといって家を出まして、四つを過ぎても帰りません。どうしたのかと案じていますと、九つ(十二時)を過ぎてようよう帰って来ました。わたくしは外へ出ませんので、世間の噂を聞きませんでしたが、おふくろはその晩、小梅で殺されたのでした。わたくしが初めてそれを知ったのは二十三日の午頃で、その翌日が千鳥から葬式の出る日でございます。延津弥はわたくしに向って、もう隠れている場合ではない、早く帰ってお葬式の施主に立てと申しますので、わたくしも思い切って帰りますと、直ぐに御用になったのでござい
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