知らないが、俄かに思い付いたようにほほえみながら、金龍山下の方角へ足をむけた。彼は延津弥の家の前に立停まって馴れなれしく声をかけた。
「師匠、内ですかえ。」
広くもない家であるから、案内の声はすぐに奥にきこえて、延津弥は入口の葭戸《よしど》をあけた。
「あら、千生さん。」
「お邪魔じゃありませんか。」
「いいえ、どうぞお上がんなさい。」
かねて識っている仲であるので、千生はずっと通って何かの世間話をはじめた。千生の肚《はら》では、こうして話し込んでいるうちにお熊が帰って来て、このおはぎは千生さんの家から貰ったと言えば、延津弥もよろこぶに相違ない。自分の顔もよくなるわけである。恩を売るというほどの深い底意はなくとも、師匠の口から礼の一つも言われたさに、彼はわざわざここへ訪ねて来たのであった。途中でお熊に出逢ったことを彼はわざと黙っていた。
やがてお熊が帰って来たので、延津弥は待ちかねたように訊いた。
「お前、あったかえ。」
「どこも売切れだというので、千生さんの家へ行って貰って来ました。」
「千生さんの家……。千鳥さんへ行って、お貰い申して来たの。あら、まあ、どうも済みません。」
と、延津弥は繰返して礼を言った。
我が思う壺にはまったので、千生は内心得意であった。
二
千生はそれから小半時《こはんとき》ほども話して帰ると、入れちがいに今戸の中田屋という質屋の亭主金助が来た。金助は晦日《みそか》まえで、蔵前《くらまえ》辺に何かの商売用があって出て来たついでに、延津弥の家へちょっと立寄ったのである。表向きは独り者といっても、延津弥がこうした旦那の世話になっているのは、その当時において珍しいことでもなかった。
金助は二階の六畳へ通された。きょうは晦日のお手当を持って来たのであるから、延津弥は取分けて愛想よく彼を迎えた。かれはお熊に言い付けてかの牡丹餅を持ち出させた。
「ああ、ここにも牡丹餅があるね。きょうは内でも食わされた。」と、金助は笑った。
「まあ、ここのも一つ食べてください。まさかに毒もはいっていませんから。」
女にすすめられて、金助はその牡丹餅を一つ食った。延津弥も食った。晦日まえで忙しいというので、金助は長居もせずに帰った。事件はこれから出来《しゅったい》したのである。
金助はそれから二、三ヵ所の用達しを済ませて、その日の七つ(午後
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