ちから浄瑠璃や踊りの稽古所ばいりを始めて、道楽の果てが寄席の高坐にあがるようになった。彼は落語家《はなしか》の円生の弟子になって千生《せんしょう》という芸名を貰っていたのである。実家が相当の店を張っていて、金づかいも悪くないお蔭に、千生の長之助は前坐の苦を早く抜け出し、芸は未熟ながらも寄席芸人の一人として、どうにか世間を押廻しているのであった。
 千生はことし二十三で、男振りもまず中くらいであるが、磨いた顔を忌《いや》にてかてかと光らせて、眉毛を細く剃りつけ、見るから芸人を看板にかけているような気障《きざ》な人体《じんてい》であったが、工面《くめん》が悪くないので透綾《すきや》の帷子《かたびら》に博多の帯、顔ばかりでなしに身装《みなり》も光っていた。
「もう遅いぜ。内でこしらえた人は格別、店で買おうという人は、みんな七つ起きをして押掛けているくらいだ。今から行ったって間に合うめえ。お気の毒だがお熊ちゃん、遅かりし由良之助だぜ。」
「そうでしょうねえ。」と、お熊はまじめでうなずいた。「実は今戸の方へ行って断られたんですよ。」
「そうだろう。今頃どこへ行っても売切れさ。いずこも同じ秋のゆうぐれで仕方がないね。」
「でも、まあ、念のために行ってみましょう。」
 別れて行こうとするお熊を、千生は又よび留めた。
「いや、お若けえの、待って下せえやし。と、長兵衛を極《き》めるほどの事でもねえが、見すみす無駄と知りながら、汗をたらして韋駄天《いだてん》は気の毒だ。ここに一つの思案あり。まあ聞きたまえ。」と、彼は芝居気取りでお熊の耳にささやいた。
 と、いっても、それは差したる秘密でもなく、これから方々の菓子屋や餅屋をさがして歩くまでもなく、わたしの家《うち》へ行って訊いてみろ。まだ食い残りがある筈であるから、そのわけを話して師匠とおまえの二人分を貰って来いというのであった。
 前にもいう通り、千生の家は小料理屋で母のお兼のほかに料理番や女中をあわせて六、七人の家内であるから、きょうの牡丹餅も相当にたくさん拵《こしら》えたのである。千生はそのお初を食って直ぐに出たのであるから、早く行けば幾らか分けてもらえるに相違ない。急げ、急げと千生は再び芝居がかりで指図した。
「ありがとうございます。では、そうしましょう。」
 お熊はよろこんで駈けて行った。千生は一体どこへ行くつもりであったのか
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