れならばお染には限らない。お夏でもお俊《しゅん》でも小春でも梅川でもいい訳《わけ》であるが、お染という名が一番可愛らしく婀娜気《あどけ》なく聞える。猛烈な流行性を有《も》って往々に人を斃《たお》すようなこの怖るべき病に対して、特にお染という最も可愛らしい名を与えたのは頗《すこぶ》る面白い対照である、流石《さすが》に江戸児《えどっこ》らしい所がある。しかし例の大虎列剌《おおこれら》が流行した時には、江戸児もこれには辟易《へきえき》したと見えて、小春とも梅川とも名付親になる者がなかったらしい。ころり[#「ころり」に傍点]と死ぬからコロリだなどと智慧《ちえ》のない名を付けてしまった。
既にその病がお染と名乗る以上は、これに※[#「馮/几」、第4水準2−3−20]着《とりつ》かれる患者は久松でなければならない。そこでお染の闖入《ちんにゅう》を防ぐには「久松留守《ひさまつるす》」という貼札《はりふだ》をするがいいということになった。新聞にもそんなことを書いた。勿論、新聞ではそれを奨励《しょうれい》した訳ではなく、単に一種の記事として昨今こんなことが流行すると報道したのであるが、それがいよいよ一般の迷信を煽《あお》って、明治二十三、四年頃の東京には「久松留守」と書いた紙札を軒に貼付けることが流行した。中には露骨に「お染御免」と書いたのもあった。
二十四年の二月、私が叔父と一所に向島の梅屋敷へ行った、風のない暖い日であった。三囲《みめぐり》の堤下《どてした》を歩いていると、一軒の農家の前に十七、八の若い娘が白い手拭をかぶって、今書いたばかりの「久松るす」という女文字の紙札を軒に貼っているのを見た。軒の傍《そば》には白い梅が咲いていた。その風情は今も眼に残っている。
その後《のち》にもインフルエンザは幾度も流行を繰返したが、お染風の名は第一回限りで絶えてしまった。ハイカラの久松に※[#「馮/几」、第4水準2−3−20]着くにはやはり片仮名《かたかな》のインフルエンザの方が似合うらしいと、私の父は笑っていた。そうして、その父も明治三十五年にやはりインフルエンザで死んだ。
十一 狐妖
音楽家のS君が来て、狐の軍人という恠談《かいだん》を話して聞かせた。
それは明治二十五年の夏であった。軍人出身のS君はその当時見習士官として北の国の○○師団司令部に勤務中で、しかも自分が当番の夜《よ》の出来事であるから決して誤謬《ごびゅう》はないと断言した。狐が軍人に化けて火薬庫の衛兵を脅かそうとしたというのである。赤羽《あかばね》や宇治の火薬庫事件が頭に残っている際であるから、私は一種の興味を以てその話を聴《き》いた。
どこも同じことで、火薬庫のある附近には、岡がある、森がある、草が深い。殊《こと》に夏の初めであるから、森の青葉は昼でも薄暗いほどに茂っていた。その森の間から夜半《よなか》の一時頃に一つの提灯《ちょうちん》がぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]とあらわれた。歩哨《ほしょう》の衛兵が能《よ》く視《み》ると、それは陸軍の提灯で別に不思議もなかった。段々|近《ちかづ》いて来ると、提灯の持主は予《かね》て顔を見識《みし》っているM大尉で、身には大尉の軍服を着けていた。しかし規則であるから、衛兵は銃剣を構えて「誰かッ」と一応|咎《とが》めたが、大尉は何とも返事をしないで衛兵の前に突っ立っていた。
返事をしない以上は直《すぐ》に突き殺しても差支《さしつかえ》ないのであるが、みすみすそれが顔を見識っている大尉であるだけに、衛兵もさすがに躊躇《ちゅうちょ》した。再び声をかけたが、大尉はやはり答えなかった。その中《うち》に衛兵は不思議なことを発見した。大尉の持っている提灯は紙ばかりで骨がなかった。大尉は剣も着けていなかった。衛兵は三たび呼んだが、それでも返事のないのを見て、彼はやにわに銃剣を揮《ふる》って大尉の胸を突き刺した。大尉は悲鳴をあげて倒れた。
衛兵はその旨《むね》を届け出たので、隊でも驚いた。司令部でも驚いた。当番のS君は真先に現場《げんじょう》へ出張した。聯隊長その他も駈付《かけつ》けて見ると、M大尉は軍服を着たままで倒れていた。衛兵の申立《もうしたて》とは違って、その持っている提灯には骨があった。しかし剣は着けていなかった、靴も穿《は》いていなかった。殊《こと》に当番でもない彼が何故《なぜ》こんな姿でここへ巡回して来たのか、それが第一の疑問であった。取《とり》あえずM大尉の自宅へ使を走らせると、大尉は無事に蚊帳《かや》の中に眠っていた。呼び起してこの出来事を報告すると、大尉自身も面食《めんくら》って早々にここへ駈付けて来た。
大尉は小作りの人であった。倒れている死体も小作りの男であった。何人《なにびと》も初めは一見して彼を大尉と認めていたが、ほんとうの大尉その人に比較して能く視ると、まるで似付かないほどに顔が違っていた。陸軍大尉の軍服は着けているが、どこの誰だか判らないということになってしまった。要するに彼はほんとうの軍人でない、何者かが軍人に変装してこの火薬庫へ窺《うかが》い寄ったのではあるまいかという決論に到着した。果してそうならば問題がまた重大になって来るので、死体を一先《ひとま》ず室内へ舁《か》き入れて、何や彼《か》やと評議をしている中《うち》に、短い夏の夜《よ》はそろそろ白んで来た。死体は仰向《あおむけ》に横《よこた》えて、顔の上には帽子が被せてあった。
とにかくに人相書《にんそうがき》を認《したた》める必要があるので、一人の少尉がその死体の顔から再び帽子を取除《とりの》けると、彼は思わずあっ[#「あっ」に傍点]と叫んだ。硝子《ガラス》の窓から流れ込む暁《あかつき》の光に照された死体の顔は、いつの間にか狐に変っていた。狐が軍服を着ていたのであった。
「狐が化けるはずはない。」
若い士官たちは容易に承認しなかった。しかし現在そこに横《よこたわ》っている死体は、人間でない、勿論M大尉でない。たしかに一匹の古狐であった。若い士官たちが如何《いか》に雄弁に論じても、この生きた証拠を動かすことは不可能であった。狐や狸が化けるという伝説も嘘ではないということになってしまった。S君も異議を唱えた一人《いちにん》で、強情に何時《いつ》までも死体を監視していたが、狐は再び人間に復《かえ》らなかった。朝がだんだん明るくなるに従って、彼は茶褐色の毛皮の正体を夏の太陽の強い光線の前に遠慮なく曝《さら》け出《だ》してしまった。ただし軍服や提灯の出所は判らなかった。
「狐が人間に化けるなどということは信じられません。私は今でも絶対に信じません。けれども、こういう不思議な事実を曾《かつ》て目撃したということだけは否《いな》む訳に行きませんよ。どう考えても判りませんねえ」と、S君は首をかしげていた。私も烟《けむ》にまかれて聴いていた。
底本:「岡本綺堂随筆集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年10月16日第1刷発行
2008(平成20)年5月23日第4刷発行
底本の親本:「五色筆」南人社
1917(大正6)年11月初版発行
初出:「木太刀」
1915(大正4)年3、7、8、9月、1916(大正5)年1、4月号
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年11月29日作成
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