自分が当番の夜《よ》の出来事であるから決して誤謬《ごびゅう》はないと断言した。狐が軍人に化けて火薬庫の衛兵を脅かそうとしたというのである。赤羽《あかばね》や宇治の火薬庫事件が頭に残っている際であるから、私は一種の興味を以てその話を聴《き》いた。
 どこも同じことで、火薬庫のある附近には、岡がある、森がある、草が深い。殊《こと》に夏の初めであるから、森の青葉は昼でも薄暗いほどに茂っていた。その森の間から夜半《よなか》の一時頃に一つの提灯《ちょうちん》がぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]とあらわれた。歩哨《ほしょう》の衛兵が能《よ》く視《み》ると、それは陸軍の提灯で別に不思議もなかった。段々|近《ちかづ》いて来ると、提灯の持主は予《かね》て顔を見識《みし》っているM大尉で、身には大尉の軍服を着けていた。しかし規則であるから、衛兵は銃剣を構えて「誰かッ」と一応|咎《とが》めたが、大尉は何とも返事をしないで衛兵の前に突っ立っていた。
 返事をしない以上は直《すぐ》に突き殺しても差支《さしつかえ》ないのであるが、みすみすそれが顔を見識っている大尉であるだけに、衛兵もさすがに躊躇《ちゅうちょ》した。
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