った。疲れた身にも寝るのが惜いように思われたのはこの夜であった。
 騾馬の嘶《いなな》きも甚だ不快な記憶を止めている。これも一種のぎいぎい[#「ぎいぎい」に傍点]という声である。どう考えても生きた物の声とは思われなかった。木と木とが触れ合ったらこんな響を発するであろうかと思われた。そうして如何《いか》にも苦しい、寂しい、悲しい、今にも亡びそうな声である。ある人が彼を評して亡国の声といったのも無理はない。決して目出たい声でない、陽気な声でない、彼は人間の滅亡を予告するように高く嘶《いなな》いているのではあるまいか。
 遼陽の攻撃戦が酣《たけなわ》なる時、私は雨の夕暮に首山堡《しゅざんぼう》の麓へ向った。その途中で避難者を乗せているらしい支那人の荷車に出逢った。左右は一面に高梁《こうりょう》の畑で真中《まんなか》には狭い道が通じているばかりであった。私はよんどころなしに畑へ入って車を避けた。車を牽《ひ》いているのは例の騾馬であった。車に乗っているのは六十あまりの老女と十七、八の若い娘と六、七歳の男の児《こ》の三人で、他に四十位で頬に大きな痣《あざ》のある男が長い鞭《むち》を執《と》っていた。車には掩蓋《おおい》がないので、人は皆|湿《ぬ》れていた。娘は蒼白《あおじろ》い顔をして、鬢《びん》に雫《しずく》を滴《た》らしているのが一入《ひとしお》あわれに見えた。
 路《みち》が悪いので車輪は容易に進まなかった。車体は右に左に動揺した。車が激しく揺れるたびに、娘は胸を抱えて苦しそうに咳き入った。わたしはもしや肺病患者ではないかと危ぶんだ。
 男は焦《じ》れて打々《ターター》と叫んだ。そうして長い鞭をあげて容赦なしに痩せた馬の脊を打った。馬は跳《おど》って狂った。狂いながらにいくたびか高く嘶いた。娘は老女の膝に倒れかかって、血を吐きそうに強く咳き入った。
 遼陽から首山堡の方面にかけて、大砲や小銃の音がいよいよ激しくなった。私は車の通り過ぎるのを待ち兼ねて、再び旧《もと》の路に出た。騾馬はまたもや続けて嘶いた。娘は揉み殺されそうに車に揺られていた。やがて男の児も泣き出した。
 私が一町ほど行き過ぎた頃にも、騾馬の声は寒い雨の中に遠く聞えていた。

     八 おたけ

 おたけは暇を取って行った。おとなしくて能《よ》く働く女であったが、たった二週間ばかりで行ってしまった。
 
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