を張っている。二本ながら高い樹で丁度二階の鼻の先に突き出ているので、この蜘蛛の巣が甚だ眼障《めざわ》りになる。私は毎朝払い落すと、午頃《ひるごろ》には大きな網が再び元のように張られている。夕方に再び払い落すと、明《あく》る朝にはまたもや大きく張られている。私が根よく払い落すと、彼も根よく網を張る。蜘蛛と私との闘《たたかい》は半月あまりも続いた。
 私は少しく根負けの気味になった。いかに鉄条網を突破しても、当の敵《かたき》の蜘蛛を打ち亡ぼさない限りは、到底最後の勝利は覚束《おぼつか》ないと思ったが、利口な彼は小さい体を枝の蔭や葉の裏に潜めて、巧みに私の竿《さお》や箒《ほうき》を逃れていた。私はこの出没自在の敵を攻撃するべくあまりに遅鈍であった。
 彼の敵は私ばかりではなかった。ある日強い南風が吹き巻《まく》って、松と槙との枝を撓《たわ》むばかりに振り動かした。彼の巣もともに動揺した。巣の一部分は大きな魚に食い破られた網のように裂《さ》けてしまった。彼は例の如く小さい体を忙がしそうに働かせながら、風に揺られつつ網の破れを繕《つくろ》っていた。
 ある日、庭に遊んでいる雀が物に驚いて飛び起《た》った時に、彼の拡《ひろ》げた翼はあたかも蜘蛛の巣に触れた。鳥は向う見ずに網を突き破って通った。それから三十分ばかりの間、小さい虫はまたもや忙がしそうに働かねばならなかった。彼は忠実なる工女のように、息もつかずに糸を織っていた。
 彼は善《よ》く働くと私はつくづく感心した。それと同時に、彼を駆逐《くちく》することは所詮《しょせん》駄目《だめ》だと、私は諦《あきら》めた。わたしはこの頑強《がんきょう》なる敵と闘うことを中止しようと決心した。
 私が蜘蛛の巣を払うのは勿論いたずらではない。しかし命賭《いのちが》けでもこれを取払わねばならぬというほどの必要に迫られている訳《わけ》でもない。単に邪魔だとか目障《めざわ》りだとかいうに過ぎないのである。これが有《あ》ったからといって、私の生活に動揺を来すというほどの大事件ではない。それと反対に、彼に取っては実に重大なる死活問題である。彼が網を張るのは悪戯《いたずら》や冗談《じょうだん》ではない、彼は生きんがために努力しているのである。彼は生きている必要上、網を張って毎日の食を求めなければならない。彼には生に対する強い執着《しゅうじゃく》がある。
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