読書雑感
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)有難《ありがた》い
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何といってもこの頃は読書子に取っては恵まれた時代である。円本は勿論、改造文庫、岩波文庫、春陽堂文庫のたぐい、二十銭か三十銭で自分の読みたい本が自由に読まれるというのは、どう考えても有難《ありがた》いことである。
趣味からいえば、廉価版の安っぽい書物は感じが悪いという。それも一応はもっともであるが、読書趣味の普及された時代、本を読みたくても金がないという人々に取っては、廉価版は確《たしか》に必要である。また、著者としても、豪華版を作って少数の人に読まれるよりも、廉価版を作って多数の人に読まれた方がよい。五百人六百人に読まれるよりも、一万人二万人に読まれた方が、著者としては本懐でなければならない。
それに付けても、わたしたちの若い時代に比べると、当世の若い人たちは確に恵まれていると思う。わたしは明治五年の生れで、十七、八歳即ち明治二十一、二年頃から、三十歳前後即ち明治三十四、五年頃までが、最も多くの書を読んだ時代であったが、その頃には勿論廉価版などというものはない。第一に古書の飜刻が甚だ少い。
したがって、古書を読もうとするには江戸時代の原本を尋ねなければならない。その原本は少い上に、価も廉《やす》くない。わたしは神田の三久(三河屋久兵衛)という古本屋へしばしばひやかしに行ったが、貧乏書生の悲しさ、読みたい本を見付けても容易に買うことが出来ないのであった。金さえあれば、おれも学者になれるのだと思ったが、それがどうにもならなかった。
わたしにかぎらず、原本は容易に獲られず、その価もまた廉くない関係から、その時代には書物の借覧ということが行われた。蔵書家に就てその蔵書を借り出して来るのである。ところが、蔵書家には門外不出を標榜している人が多く、自宅へ来て読むというならば読ませて遣《や》るが、貸出しは一切断るというのである。そうなると、その家を訪問して読ませてもらうのほかはない。
日曜日のほかに余暇のないわたしは、それからそれへと紹介を求めて諸家を訪問することになったが、それが随分難儀な仕事であった。由来、蔵書家というような人たちは、東京のまん中にあまり多く住んでいない。大抵は場末の不便なところに住んでいる。電車の便などのない時代に、本郷小石川や本所深川辺まで尋ねて行くことになると、その往復だけでも相当の時間を費してしまうので、肝腎の読書の時間が案外に少いことになるには頗《すこぶ》る困った。
なにしろ馴染《なじみ》の浅い家へ行って、悠々と坐り込んで書物を読んでいるのは心苦しいことである。蔵書家といっても、広い家に住んでいるとは限らないから、時には玄関の二畳ぐらいの処に坐って読まされる。時にはまた、立派な座敷へ通されて恐縮することもある。腰弁当で出かけても、碌々《ろくろく》に茶も飲ませてくれない家がある。そうかと思うと、茶や菓子を出して、おまけに鰻飯などを喰わせてくれる家がある。その待遇は千差万別で、冷遇はいささか不平であるが、優待もあまりに気の毒でたびたび出かけるのを遠慮するようにもなる。冷遇も困るが、優待も困る。そこの加減がどうもむずかしいのであった。
そのあいだには、上野の図書館へも通ったが、やはり特別の書物を読もうとすると、蔵書家をたずねる必要が生ずるので、わたしは前にいうような冷遇と優待を受けながら、根よく方々をたずね廻った。ただ読んでいるばかりでは済まない。時には抜き書きをすることもある。万年筆などのない時代であるから、矢立《やたて》と罫紙を持参で出かける。そうした思い出のある抜き書き類も、先年の震災でみな灰となってしまった。
そういう時代に、博文館から日本文学全書、温知叢書、帝国文庫等の飜刻物を出してくれたのは、我々に取って一種の福音であった。勿論、ありふれた物ばかりで、別に珍奇の書は見出されなかったが、それらの書物を自分の座右に備え付けておかれるというだけでも、確に有難いことであった。
その後、古書の飜刻も続々行われ、わたしの懐にも幾分の余裕が出来て、買いたい本はどうにか買えるようにもなったが、その昔の読書の苦しみは身にしみて覚えている。わたしはその経験があるだけに、書物の装幀などにはあまり重きを置かない。なんでも廉く買えて、それを自分の手もとに置くことの出来るのを第一義としている。
前にもいう通り、わたしが矢立と罫紙を持って、風雨を冒して郊外の蔵書家を訪問して、一生懸命に筆写して来た書物が、今日では何々文庫として二十銭か三十銭で容易に手に入れることが出来るのは、読書子に取って実に幸福であるといわなければならない。廉価版が善いの悪いのと贅沢をいうべきではない。
博文館以外にも、その当時に古
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