当今の劇壇をこのままに
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)旧臘《きゅうろう》
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(例)※[#「冫+咸」、305−5]
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今の劇壇、それはこのままでいいと思う。旧臘《きゅうろう》私は小山内《おさない》君の自由劇場の演劇を見た、仲々上手だった、然しあれを今の劇壇に直にまた持って来る事も出来ないでしょうし、文士劇でも勿論あるまい。
医師が薬を盛る時に、甚しく苦い薬であると、患者は「これは非常によく利《き》く」といわれても、飲むのを嫌がる、男はそれでも我慢をして飲みもするが、婦人などは「死んでも妾《わたし》は飲まない」などと随分と強硬なのがある。生命《いのち》と取換えの事がそれである。どっちかといえば、見ても見ないでもいい芝居を、いくら良《い》いものでも、苦かったら見まいと思う。医師は患者に苦い薬を飲ませる場合に最中やオムラートに包んで服用させる、患者はそれで利くと段々と信じ、かつ馴《な》れて苦い薬も飲むようになるのである。
今の劇壇はこのままでいいとは、急激な苦い薬を飲ませずに、最中やオムラートで包んで飲ませようの謂《いい》である、私は常にそう思う。芝居の見物は幼稚である、進まないといわれるが、なるほど批評家や脚本作家から見れば幼稚でもあり、進まないであろうが随分と進んでは来ている、昨年、歌舞伎座と市村座で骨《こつ》寄《よ》せの岩藤を演じたが、先代菊五郎の演《や》った一昔の前には見物は喜んで見ていたのが、今では骨《こつ》が寄るのを見ると、いずれも見物は笑った。今の方が遥《はるか》に道具も工夫も巧妙であるでしょうに、見物は笑った。して見ると見物は進んで行く、このままで行っても十年後には随分自由劇場も儲《もう》かる事になるでしょう。私は外国へ行った事はないが、外国《あちら》でも一般の見物にはイブセンやマアテルリングなどは受けないのだそうですな、それで自由劇場のような団隊《だんたい》が沢山あるが、それも思わしい决算《けっさん》を見ないで行悩《ゆきなや》み勝ちだという。
私は見物は進んで行くし乳がなくても子は育つ、一年経てば一つになる、外国《あちら》でも見物は甘いものだ、といって、現状に満足する
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