島原の夢
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)戯場訓蒙図彙《ぎじょうくんもうずい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)息女|雛鳥《ひなどり》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]
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『戯場訓蒙図彙《ぎじょうくんもうずい》』や『東都歳事記』や、さてはもろもろの浮世絵にみる江戸の歌舞伎の世界は、たといそれがいかばかり懐かしいものであっても、所詮《しょせん》は遠い昔の夢の夢であって、それに引かれ寄ろうとするにはあまりに縁が遠い。何かの架け橋がなければ渡ってゆかれないような気がする。その架け橋は三十年ほど前から殆《ほとん》ど断えたといってもいい位に、朽ちながら残っていた。それが今度の震災と共に、東京の人と悲しい別離をつげて、かけ橋はまったく断えてしまったらしい。
おなじ東京の名をよぶにも、今後はおそらく旧東京と新東京とに区別されるであろう。しかしその旧東京にもまた二つの時代が劃されていた。それは明治の初年から二十七、八年の日清戦争までと、その後の今年までとで、政治経済の方面から日常生活の風俗習慣にいたるまでが、おのずからに前期と後期とに分たれていた。
明治の初期にはいわゆる文明開化の風が吹きまくって、鉄道が敷かれ、瓦斯灯《ガスとう》がひかり、洋服や洋傘やトンビが流行しても、詮ずるにそれは形容ばかりの進化であって、その鉄道にのる人、瓦斯灯に照される人、洋服をきる人、トンビをきる人、その大多数はやはり江戸時代からはみ出して来た人たちである事を記憶しなければならない。わたしは明治になってから初めてこの世の風に吹かれた人間であるが、そういう人たちにはぐくまれ、そういう人たちに教えられて生長した。即ち旧東京の前期の人である。それだけに、遠い江戸歌舞伎の夢を追うにはいささか便りのよい架け橋を渡って来たともいい得られる。しかしその遠いむかしの夢の夢の世界は、単に自分のあこがれを満足させるにとどまって、他人にむかっては語るにも語られない夢幻の境地である。わたしはそれを語るべき詞《ことば》をしらない。
しかし、その夢の夢をはなれて、自分がたしかに蹈み渡って来た世界の姿であるならば、たといそれがやはり一場の過去の夢にすぎないとしても、私はその夢の世界を明《あきら》かに語ることが出来る。老いさらばえた母をみて、おれはかつてこの母の乳を飲んだのかと怪しく思うようなことがあっても、その昔の乳の味はやはり忘れ得ないとおなじように、移り変った現在の歌舞伎の世界をみていながらも、わたしはやはり昔の歌舞伎の夢から醒め得ないのである。母の乳のぬくみを忘れ得ないのである。
その夢はいろいろの姿でわたしの眼の前に展開される。
劇場は日本一の新富座、グラント将軍が見物したという新富座、はじめて瓦斯灯を用いたという新富座、はじめて夜芝居を興行したという新富座、桟敷《さじき》五人詰一間の値四円五十銭で世間をおどろかした新富座――その劇場のまえに、十二、三歳の少年のすがたが見出される。少年は父と姉とに連れられている。かれらは紙捻《こよ》りでこしらえた太い鼻緒の草履《ぞうり》をはいている。
劇場の両側には六、七軒の芝居茶屋がならんでいる。そのあいだには芝居みやげの菓子や、辻占《つじうら》せんべいや、花かんざしなどを売る店もまじっている。向う側にも七、八軒の茶屋がならんでいる。どの茶屋も軒には新《あたらし》い花暖簾《はなのれん》をかけて、さるや[#「さるや」に傍点]とか菊岡とか梅林《ばいりん》とかいう家号を筆太に記るした提灯《ちょうちん》がかけつらねてある。劇場の木戸まえには座主や俳優に贈られた色々の幟《のぼり》が文字通りに林立している。その幟のあいだから幾枚の絵看板が見えがくれに仰がれて、木戸の前、茶屋のまえには、幟とおなじ種類の積物《つみもの》が往来へはみ出すように積み飾られている。
ここを新富町だの、新富座だのというものはない。一般に島原とか、島原の芝居とか呼んでいた。明治の初年、ここに新島原の遊廓が一時栄えた歴史を有《も》っているので、東京の人はその後も島原の名を忘れなかったのである。
築地の川は今よりも青くながれている。高い建物のすくない町のうえに紺青の空が大きく澄んで、秋の雲がその白いかげをゆらゆらと浮べている。河岸の柳は秋風にかるくなびいて、そこには釣《つり》をしている人もある。その人は俳優の配りものらしい浴衣《ゆかた》を着て、日よけの頬かむりをして粋な莨入《たばこい》れを腰にさげている。そこには笛をふいている飴屋もある。その飴屋の小さい屋台店
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