屋の若い者や出方のうちでも、如才のないものは自分たちの客をさがしあるいて、もう幕があきますと触れてまわる。それに促されて、少年もその父もその姉もおなじく急いで帰ろうとする。少年はぶら下げていた煎餅《せんべい》の籠を投げ出すように姉に渡して、一番先に駈出してゆく。木の音はつづいてきこえるが、幕はなかなかあかない。最初からかしこまっていた観客は居ずまいを直し、外から戻って来た観客はようやく元の席に落ちついた頃になっても、舞台と客席とを遮《さえぎ》る華やかな大きい幕はなおいつまでも閉じられて、舞台の秘密を容易に観客に示そうとはしない。しかも観客は一人も忍耐力を失わないらしい。幽霊の出るまえの鐘の音、幕のあく前の拍子木の音、いずれも観客の気分を緊張させるべく不可思議の魅力をたくわえているのである。少年もその木の音の一つ一つを聴くたびに、胸を跳《おど》らせて正面をみつめている。
幕があく。『妹脊山婦女庭訓』、吉野川の場である。岩にせかれて咽《むせ》び落ちる山川を境にして、上の方の脊山にも、下の方の妹山にも、武家の屋形がある。川の岸には桜が咲きみだれている。妹山の家には古風な大きい雛段が飾られて、若い美しい姫が腰元どもと一所《いっしょ》にさびしくその雛にかしずいている。脊山の家には簾《す》がおろされてあったが、腰元のひとりが小石に封じ文をむすび付けて打ち込んだ水の音におどろかされて、簾がしずかに巻きあげられると、そこにはむらさきの小袖に茶苧《ちゃう》の袴をつけた美少年が殊勝げに経巻を読誦《ずしょう》している。高島屋とよぶ声がしきりに聞える。美少年は市川左団次の久我之助《こがのすけ》である。
姫は太宰の息女|雛鳥《ひなどり》で、中村福助である。雛鳥が恋人のすがたを見つけて庭に降り立つと、これには新駒屋とよぶ声がしきりに浴《あび》せかけられたが、かれの姫はめずらしくない。左団次が前髪立《まえがみだて》の少年に扮して、しかも水の滴るように美しいというのが観客の眼を奪ったらしい。少年の父も唸るような吐息を洩しながら眺めていると、舞台の上の色や形はさまざまの美《うつくし》い錦絵をひろげてゆく。
脊山の方《かた》は大判司清澄《だいはんじきよずみ》――チョボの太夫の力強い声によび出されて、仮花道《かりはなみち》にあらわれたのは織物の※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#
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