に知らせて来る筈になっているので、表を通る足音ももしやそれかと待ち暮らしていましたが、会津屋から何の知らせもありませんでした。母もわたくしも心配しながら寝床にはいりましたが、ゆうべもよく眠られませんでしたので、年のゆかないわたくしは枕に就くと正体もなしに寝入ってしまいました。あくる朝になって聞きますと、母はゆうべもよく寝付かれなかったそうでございます。
 あさの御飯をたべてしまうと、わたくしは会津屋へ行きました。きょうも朝から照り付くような暑さで、わたくしは日傘を持って出ました。伝馬町《てんまちょう》の大通りへ出て、ふと見ますと、会津屋の前には大勢の人立ちがしているので、何とはなしにはっとして、急いで店先へ駈けて行きますと、そこには一挺の駕籠がおろしてありまして、一人の男が杖をそばに置いて、店先に腰かけています。その人相や、様子が、きのう聞いた新宿のよい辰[#「よい辰」に傍点]ではないかと思いながら、人込みの間からそっと覗いていますと、その男はもう五十以上でございましょう。なんだか舌のまわらないような口調で呶鳴っているのでございます。
「さあ、おれをどうしてくれるのだ。この年になって、こんなからだになって、大事の稼ぎ人を殺されてしまって、あしたから生きて行くことが出来ねえ。」
 まったくよいよい[#「よいよい」に傍点]に相違ありません。呂律《ろれつ》のまわらない口でこんなことを頻りに繰返して呶鳴っているので、店の者はみんな困っているようでした。そのうちに誰かが呼んで来たのでしょう。町内の鳶頭《かしら》が来まして、なにかいろいろになだめて、駕籠屋にも幾らかの祝儀をやって、管《くだ》をまいているその男を無理に押込むように駕籠にのせて、ようようのことで追返してしまいました。鳶頭はまだそこに腰をかけて、店の者と何か話しているようでしたが、わたくしは奥へ通って叔母に逢いますと、叔母の顔はきのうに比べると、また俄かに窶《やつ》れたようにみえました。
「まあちゃん、お前さんにまで心配をかけて済みませんね。叔父さんは帰って来ないし、さあちゃんも行くえが知れないし、おまけにあんな奴が呶鳴り込んで来るし、わたしももうどうしていいか判らないんだよ。」
「あの人はどこの人です。」
「あれは新宿のよい辰[#「よい辰」に傍点]というんだとさ。よいよいの言う事だからよく判らないけれど、内の叔父さんがその娘のお春というのを引っ張り出して、それがためにお春が石切横町で雷に撃たれて死んだというので、ここの家《うち》へ文句を言いに来たんだが、わたしはなんにも知らない事だし、相手がかみなり様じゃあどうにもならないじゃあないか。」
「そうですねえ。」
「たとい叔父さんが引っ張り出したにしても、雷に撃たれたのは災難じゃあないか。自分たちの身状《みじょう》が悪いから、罰《ばち》があたったのさ。」と、叔母は罵るように言いました。「叔父さんが娘を引っ張り出したのか、あいつらが叔父さんを引っ張り出したのか判るものかね。」
 その権幕があまり激しいので、わたくしは怖くなりました。なるほど母のいう通り、叔母は気違いにでもなるのでないかと思うと、なんだか気味が悪くなって、逃げるように早々帰って来ました。
 それから三日ばかり過ぎました。そのあいだに母は毎日二、三度ずつ会津屋を訪ねていましたが、叔父もお定姉妹もやはり姿をみせないのでございます。今日《こんにち》で申せばヒステリーとでもいうのでしょう、叔母は半気違いのようになって家《うち》じゅうの者に当り散らしていました。
「ああしていたら会津屋はつぶれる。」と、母も涙をこぼしていました。
 七月三日の午《ひる》過ぎになって、叔父の姿が見いだされました。叔父は千駄ヶ谷につづいている草原のなかに倒れて死んでいたのでございます。大きい切石で脳天をぶち割られて。……それを考えると今でもぞっとします。その知らせが来たので、会津屋の店の者や、出入りの仕事師や、町内の月番の者や、十人ほど連れ立って、叔父の死骸を引取りに行きました。それを聞いたときには、母は声を立てて泣き出しました。わたくしも泣きました。

     五

 いえ、どうもお話が長くなりまして、定《さだ》めし御退屈でございましょう。これから先のことは、自分が実地を見たわけではなく、あとで聞かされたのでございますから、なるべく掻いつまんで申上げることに致します。
 叔父の頭を石でぶち割ったというのは、その疵口ばかりでなく、血に染みた大きい切石がその近所に捨ててあったのを見て、すぐにそれと覚られたのだそうでございます。叔父がなんでそんな所にうろ付いていたのか、またどうして殺されたのか、誰にも見当が付かなかったのでございますが、やはりその時代でも探偵は相当に行届いていたものと見えまして、検視に来た役人たちはそこらの草の中に小さい蝋燭《ろうそく》の燃えさしと、ほかに印籠《いんろう》のようなものが落ちているのを見つけ出しました。それが手がかりになって四、五日の後に、叔父を殺した罪人は召捕られました。
 わたくしはその品を見ませんので、くわしいことは申上げられませんが、その印籠のようなものというのは本当の印籠よりも少し細い形で、どちらかといえば筒《つつ》のような物であったそうです。蒔絵《まきえ》などがしてあって、なかなか贅沢な拵《こしら》えであったと申します。素人にはそれが何であるかちょっと判りかねるのでございますが、役人たちはさすがに職業柄で、それは蜘蛛を入れるものであるということを知っていました。皆さんの中には御存じの方もございましょうが、江戸の文化文政ごろには蜘蛛を咬み合わせることがはやったそうでございます。シナでも或る地方ではきりぎりすを咬みあわせることが大層はやるといいますが、日本の蜘蛛も大方そんなことから来たのでしょう。誰がはじめたのか知りませんが、一時はだいぶはやりました。それが天保度《てんぽうど》の改革以来すっかりやんでしまいまして、幕末になってぼつぼつとはやり出しました。つまり軍鶏《しゃも》の蹴合《けあ》いなどと同じことで、一種の賭博に相違ありませんが、軍鶏は主《おも》に下等の人間の行なうことで、蜘蛛はまず上品のほうになっていたのだそうでございます。したがって、その蜘蛛を入れる筒には贅沢な品もあったというわけです。会津屋の叔父もいつの間にかこの道楽を始めていたのだということが、死んだあとになって判りました。
 叔父は一体が凝り性である上に、根が勝負事でありますから、だんだんに深入りをして、ほとんど夢中になってしまったのでございます。四谷辺では新宿の貸座敷の近所にある引手茶屋《ひきてぢゃや》や料理茶屋の奥二階を会場にきめて、毎日のように勝負を争っていましたが、そういう所では人の目について悪いというので、かのよい[#「よい」に傍点]辰の座敷を借りることになりました。前にも申した通り、よい辰のむすめのお春は近江屋という質屋の亭主の世話になっていました。その近江屋もやはりこの勝負の仲間である関係から、よい辰の座敷を借りることにしたのだそうでございます。お春というのも芸者あがりの莫連者《ばくれんもの》ですから、自分も男の仲間にはいって一緒に勝負をしていたそうです。親父のよい辰も半身不随のくせに、やはり勝負をしていたのでございます。いつの代もおなじことで、こんなことに耽《ふけ》っていれば結局碌なことにはなりません。
 わたくしにはよく判りませんが、蜘蛛というものは非常に残忍な動物で、同類相噛むと申します。その性質を利用して勝負を争うのですから、碁や将棋や花合せとは違いまして、自分の上手下手というよりも、虫の強い弱いということが大切でございます。それですから、咬み合いに用いる蜘蛛はなかなかその値が高かったと申します。そのなかでも袋蜘蛛がよいという事になっていたそうでございます。御承知の通り、袋蜘蛛は地のなかに棲んでいまして、袋のなかにたくさんの子を入れているのでございます。
 勝負事ですから、勝ったり負けたりするのでございましょうが、叔父は近ごろ運が悪くて、しきりに負けが続きました。負ければ負けるほど熱くなるのが勝負事のならいで、叔父はいよいよ夢中になって家の金をつかみ出しているうちに、手元がだんだん苦しくなって来ました。伯母には内密で諸方《しょほう》に借金が出来ました。まだその上に、お春親子にも三、四十両の借金が出来ました。お春の借りは勝負の上の借りですから、表立ってどうこうと言うわけにはいかない性質のものですが、その方《かた》を付けて置かないとお春の家へ出這入《ではい》りが仕にくいことになります。ことに七月の盆前にさしかかっているので、お春の方でも催促します。そこで、叔父は一時のがれの気やすめに、自分は石切横町に一軒の家作《かさく》を持っているから、もし盆前までに返金が出来なかったらば、それをおまえの方へ引渡すといって、念のためにお春を連れ出したのでございます。苦しまぎれとはいいながら、叔父も随分ひどい人で、お春をわたくしの家の前へ連れて来て、これがおれの家作だと教えたのだそうです。
 お春はそれで一旦|得心《とくしん》したのですが、家へ帰って親父に話すと、親父はよい辰ですから迂濶にその手に乗りません。よその家を人にみせて、これがおれの家作だなぞというのは、昔からよくある手だから油断は出来ない。念のためにもう一度その家をたずねて行って、たしかに会津屋の家作であるかないかを確かめて来いと言いましたので、お春も成る程と思って、あくる日の午《ひる》すぎにまた出直して来ると、あいにくにあの夕立で……。その後のことは死人に口なしでよく判りませんが、わたくしの横町へはいって、大きい銀杏の下に雨やどりをしているうちに、運わるく雷が落ちて来たらしいのです。前後の事情を考えると、どうしてもこう判断するよりほかはありません。よい辰が利かないからだを駕籠にのせて、会津屋へ呶鳴り込んで来たのも、それがためです。
 お春のことはまずそれとしまして、これからは叔父と娘ふたりの身の上でございますが、まったく勝負事にのぼせるというのは怖ろしいもので、叔父はもう夢中になってしまって、親子の情愛も忘れたらしいのでございます。勿論、盆前《ぼんまえ》にさしかかって諸方の借金に責められるという苦しい事情もあったのでしょうが、叔父は、ここで、どうしても勝ちたい、勝たなければならないと思ったらしいのです。それには前にも申す通り、どうしても強い虫を手に入れなければなりません。よい辰のところへ勝負に来る仲間はなんでも十人ほどありまして、その中で大木戸に住んでいる相模屋という煙草屋の亭主の持っている虫はたいそう強いので、叔父はしきりにそれを羨ましがって、どうか一匹譲ってくれないかと頼みますと、相模屋の亭主――名は善兵衛というのでございます。――はなかなか承知しませんで、これはみんな大事の虫だからめったに譲ることは出来ないと断りました。叔父はもう逆上《のぼ》せていますから、譲ってくれればどんな礼でもするという。それでも善兵衛は容易に承知しないでさんざん焦《じ》らした挙げ句に、おまえの娘をくれるならば譲ってやると言い出したのでございます。ずいぶん乱暴な話ですけれども、半気違いの叔父は、むむ、よろしいと承知してしまいました。
 しかしほかの事と違いますから、叔母に打明けるわけには参りません。いえば、不承知は判り切っています。不承知どころか、どんな騒ぎになるか判りません。そこで、叔父はそっと自分の家の近所へ忍んで来て、姉娘が外へ出るのを待っていますと、お定が糸を買いに出て来ましたので、ちょいとそこまで一緒に来てくれといって連れて行きました。お定も自分の親のいうことですから、なんの気もつかずに一緒に付いて行くと、叔父はむすめを大木戸の相模屋へ連れ込んで、いい加減にだまして二階へ押上げてしまいました。こうなると、お定ももう十七、八ですから、なんだかおかしく思って、早く家へ帰りたいと言い出しますと、叔父はここで一切《いっさい》の事情を打明
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