《うち》じゅうの者をむやみに叱り散らして……。叔母さんが何かいうと、あたまから呶鳴りつけて……。まるで気でも違ったような風で……。あれが嵩《こう》じたら、しまいにはどうなるだろうと、叔母さんはそれも心配しているんだよ。」
「まあ。」と、言ったばかりで、わたくしはいよいよ情けなくなりました。
 広い世間から見ますれば、会津屋という刀屋一軒が倒れようが起きようが、またその亭主が死のうが生きようが、勿論なんでも無いことでございましょうが、今のわたくし共に取りましては実に一大事でございます。
「蚊が出たね。」
 母が気がついたように言いました。わたくしはさっきから気が付かないでもなかったのですが、話の方に屈託《くったく》して、ついその儘《まま》になっていたのでございます。唯今と違って、そのころの山の手は大変、日が暮れるとたくさんの蚊が群がって来まして、鼻や口へもばらばら飛び込みます。
 母に催促されて、わたくしは慌てて縁側へ土《つち》焼きの豚を持ち出して、いつものように蚊いぶしに取りかかりましたが、その煙りが今夜は取分けて眼にしみるように思われました。

     二

 会津屋のむすめのお定とお由はわたくしの稽古|朋輩《ほうばい》で、おなじ裁縫のお師匠さんへ通っているのでございます。従妹《いとこ》同士でもあり、稽古朋輩ですから、ふだんから仲のいいのは勿論で、叔父さんがそんな風ではわたくしたちばかりでなく、さあ[#「さあ」に傍点]ちゃんやおよっ[#「よっ」に傍点]ちゃんもさぞ困るだろうなどと考えると、わたくしは本当に悲しくなりました。こういう時の心持は悲しいとか情けないとかいうよりほかに申上げようはございません。どうぞお察しを願います。
 あくる日、お稽古に参りますと、お定とお由の姉妹《きょうだい》はいつもの通りに来ていました。気をつけて見ますと、わたくしの気のせいか、姉妹ともになんだか暗いような、涙ぐんだような顔をしています。ゆうべのことについて、もっと詳しく訊いてみたいような気もしましたけれど、ほかにも稽古朋輩が五、六人坐っているのですから迂濶《うかつ》なことも言えません。お稽古が済んで、途中まで一緒に帰って来ると、お定が歩きながらわたくしに訊きました。
「家《うち》のおっかさんがゆうべお前さんのとこへ行ったでしょう。」
「ええ、来てよ。」
「どんな話をして……。」
 正直に言えばよかったのでしょうが、わたくしは何だか言いそびれて、叔母さんはわたしがお湯に行っている留守に来たのだから、どんな話をしたのかよく知らないと、いい加減にごまかしてしまいました。お定はだまってうなずいていましたが、その苦労ありそうな顔は、わたくしにもよく判りました。やがて横町の角へ来たので、そこで別れて二、三間ほど歩き出しますと、お定は引っ返してわたくしのあとを追って来ました。そうして、わたくしの耳の端《はた》へ口を寄せるようにして、小声に少し力を籠《こ》めて言いました。
「およっちゃんと仲よくして頂戴よ。」
 そう言ったかと思うと、足早にまた引っ返して行ってしまいました。なんの訳だか判りません。きょうに限って、お定がなぜわざわざそんなことを言ったのか、わたくしも少しおかしく思いました。
 およっちゃんというのは妹のお由のことで、わたくしの兄とは三つ違いでございまして、従妹《いとこ》同士の重縁《じゅうえん》でゆくゆくは兄と一緒にするという相談が、双方の親たちのあいだに結ばれていることを、わたくしも薄うす承知していましたから、わたくしに向っておよっちゃんと仲よくしてくれというのは判っています。しかし今さら思い出したように往来のまん中で、だしぬけにそんなことを言ったのはどういう料簡《りょうけん》か、年のゆかないわたくしには呑み込めませんでしたが、それでも深くも気に留めないで、そのまま自分の家へ帰りました。勿論、母にもそんな話はしませんでした。
 その日はずいぶん暑かったのを覚えています。あんまり蒸すから今に夕立でも降るかも知れないと母が言っていますと、果して七つ半、唯今の午後五時でございます。その頃から空が陰って来ました。西の方角で遠い雷《らい》の音がきこえました。わたくしも雷が嫌いですが、母はなおさら嫌いで、かみなり様が鳴り出したが最後、顔の色をかえて半病人のようになってしまうのでございます。空は陰って来る、雷は鳴って来る、母の顔色はだんだん悪くなって来る。わたくしもかねて心得ていますから、蚊帳《かや》を吊る。お線香の支度をする。それから裏の空き地へ出て干物《ほしもの》を片づける。そのうちに大粒の雨が降って来る。いなびかりがする。あわてて雨戸を繰出《くりだ》している間に、母は蚊帳のなかへ逃げ込んでしまいました。
 いや、こんなことを詳しく申上げていては長くなり
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