ます。とにかく、それから半|時《とき》あまりは雨と雷と稲びかりとが続いて、わたくしも仕舞いには母の蚊帳のなかへもぐり込むような始末でございました。横町の中ほどにある大きい銀杏《いちょう》に雷が落ちたときには、わたくしも気が遠くなるくらいに驚かされました。
 その夕立もようやく通り過ぎて、ゆう日のひかりが薄く洩れて来たので、母もわたくしも生きかえったように元気が出て、蚊帳をはずしたり、雨戸を明けたりしていると、どこの家でも同じことで、雨戸をあける音や、人の話し声や、往来をあるく足音や、それらが一緒になって、世間は夜があけたように賑やかになりました。
「さっきのかみなり様は一つ、どこか近所へお下《さが》りなすったに相違ないよ。」と、母は言いました。
「そうでしょうねえ。」
 そんなことを話し合っているうちに、表はいよいよ騒がしくなって、大勢の人が駈けて行く足音がきこえます。そうして、女だとか若い女だとかいう声がきこえます。何事が起ったのかとわたくしも表へ出てみると、横町の中ほどにある銀杏のまわりに大勢の人があつまっているので、雷はあすこへ落ちたのだろうと思いましたが、若い女だというのが判りません。もしや誰かが雷に撃たれたのかと、怖いものを見たさに駈けて行きますと、案の通り、そこには若い女が倒れているのでございます。
 女は雨やどりをするつもりで銀杏の下へ駈け込んだのか、それとも、ちょうど銀杏の下を通りかかったのか、いずれにしても、その木に雷が落ちたために、女も撃たれて死んだらしいのです。
 雷に撃たれて死んだ人を生れてから初めて見て、わたくしは思わずぞっとしましたが、もう一つ驚かされたのは、倒れている女の右の腕あたりにかなり大きい一匹の青い蛇が長くなって死んでいることでした。
 そこらにいた人たちの話では、その蛇は銀杏の洞《うつろ》のなかに棲んでいたものだろうということで、勿論その女に関係はないのでしょうが、なにしろ若い女が髪をふり乱して倒れている。その腕のあたりに長い蛇が死んでいるというわけですから、わたくしはまたぞっとしました。
 それだけで逃げて帰ればよろしいのですが、唯今も申す通りに怖いもの見たさで、わたくしは怖ごわながらそっと覗いてみると、その女の顔には見覚えがあります。年のころは二十二、三の粋な女――きのうのお午ごろ、叔父と一緒にわたくしの家のまえに立っていた女――着物は変っていましたけれど、確かにそれに相違ないので、わたくしは俄かにからだ中が冷たくなって、手も足もすくんでしまうように思われました。どこの何という人か知りませんけれど、ともかくも叔父と連れ立って、きのうここへ来た女がきょうもまたここへ来て、しかも雷に撃たれて死んだということが、わたくしに取っては不思議なような、怖ろしいような、何かの因縁《いんねん》があるような、一種の言うにいわれない不気味さを感じたのでございます。こう申すと、みなさんは定めてお笑いになるかも知れませんが、わたくしはその時まったく怖かったのでございます。
 死骸のまわりには大勢の人があつまっていましたが、唯《ただ》がやがやと騒いでいるばかりで、その女がどこの誰だか、識っている者はないようでございます。自身番からも人が来て、御検視を願うのだとか言っていました。
 叔父のところへ知らせてやれば、おそらく身許《みもと》は判るだろうと思うのですけれど、うっかりしたことを言っていいか悪いか判りませんから、わたくしは急いで家へ帰って来て、母にその話をしますと、母も顔をしかめて考えていましたが、そんなことに係《かか》り合うと面倒だから、決してなんにも言ってはならないと戒めました。それでもなんだか気にかかるとみえて、母はまた考えながら起《た》ちあがりました。
「おまえ、見違いじゃあるまいね。確かにきのうの女だろうね。」
「ええ、確かにきのうの人でした。」と、わたくしは受合うように言いました。
「それじゃ会津屋へ行って、叔父さんにそっと耳打ちをして来ようかねえ。」
 母は思いきって出て行きました。そのうちに日も暮れてしまって、例の蚊いぶしの時刻になりましたが、わたくしは今夜もぼんやりして、ただ坐ったままでその女のことばかりを考えていました。
 雷に撃たれて死んだのですから、別に叔父の迷惑になるようなこともあるまいとは思うのですが、ともかくも叔父の識っている人が変死を遂げたということだけでも、決していい心持はいたしません。その女は夕立の最中になんでこの横町へ来たのだろう。もしやわたしの家へたずねて来る途中ではなかったか。そうすると、わたくしの家の者も自身番へ呼出されて、なにかのお調べを受けはしまいかなどと、それからそれへといろいろのことを考えて、いよいよ忌《いや》な心持になっているところへ、母があわただしく帰
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