知っているわ。姉さんはふうちゃんと一緒に、どっかに隠れているのよ。」
わたくしはまたびっくりしました。兄の房太郎は奉公中の身の上でございます。それが叔父のむすめを誘い出してどこにか隠れている。そんなことのあろう筈がありません。お由がなぜそんなことを言うのかと、わたくしは呆れてその顔をながめていますと、お由の眼はいつかうるんで来ました。
「ねえさん、あんまりだわ。」
前にも申す通り、お定は総領ですから婿を取らなければなりません。そこで、妹娘のお由を兄の房太郎に娶《めあ》わせるという内約束になっていることは、わたくしも薄うす知っています。その妹の男を姉が横取りして、一緒にどこへか姿をかくしたとすれば、妹のお由が恨むのも無理はありません。しかしお定はそんな人間でしょうか。兄はそんな人間でしょうか。わたくしにはどうしても本当の事とは思われませんので、いろいろにその子細を詮議してみましたが、お由も確かな証拠を握っているのではないらしいのです。それでもきっとそれに相違ないと、涙をこぼして口惜しがっているのです。
嘘か、本当か、なにしろこうなってはうかうかしていられないので、わたくしは急いで家へ帰って、母にそれを訴えますと、母も顔の色を変えました。万一それが本当ならば、お定ばかりのことではなく、兄もお店《たな》をしくじるのは知れていますから、母はすぐに支度をして、京橋の店へその実否《じっぷ》をただしに行くことになりまして、慌てて着物を着かえているうちに、俄かに持病が起りました。
母の持病は癪《しゃく》でございます。この頃の暑さで幾らか弱っていたところへ、きのうからいろいろの心配がつづきまして、ゆうべも碌ろく眠らない上に、今は又、飛んでもないことを聞かされたので、持病の癪が急に取りつめて来たのでございます。持病ですから、わたくしも馴れてはいますが、それでも打っちゃっては置かれませんので、近所の鍼医《はりい》さんを呼んで来て、いつものように針を打って貰いますと、まずいい塩梅《あんばい》におちつきましたが、母の癖で、癪を起しますと小半日は起きられないのでございます。
「あいにくだねえ。」
母は焦《じ》れて無理にも起きようとしますが、日盛りに出て行って、また途中で倒れでもしては大変ですから、いろいろになだめて片陰《かたかげ》の出来るまで寝かして置きまして、やがて七つ半を過ぎた頃から出してやりました。まだ不安心ですから、駕籠を頼もうかと言いましたが、母はもう大丈夫だと、歩いて出て行きました。
わたくしが独りで留守番をするのは、今に始まった事ではありませんが、きょうはなんだか心さびしくてなりませんでした。日が暮れ切ってから会津屋の叔母が蒼い顔をして尋ねて来まして、叔父もお定もまだ行くえが知れない。お岩稲荷のお神籤《みくじ》を取ってみたらば、凶と出たということでした。
「おっかさんはどこへ……。」
その返事にはわたくしも少し困りました。兄のことで京橋へ出て行ったと正直に話すわけにもゆかないので、芝の方によい占い者があるので、そこへ見てもらいに行ったと、いい加減の嘘をついて置きました。それもわたくしの知恵ではございません。もし会津屋から誰かが来たらば、まずそう言って置けと母から教えられていたのでございます。それでも知らぬが仏というのでございましょう。叔母は気の毒そうに溜息をついていました。
「みんなに心配をかけて済まないねえ。」
叔母もこれから市ヶ谷の方の占い者のところへ行くといって帰りました。今夜も暑い晩で、近所の家では表へ縁台を出して涼んでいるらしく、方々で賑やかな笑い声もきこえますが、わたくしは泣き出したいくらいに気が沈んで、門端《かどばた》へ出ようともしませんでした。女の足で京橋まで行ったのですから、暇《ひま》どれるのは判っていますが、母の帰って来るのがむやみに待たれます。そこへ会津屋の利吉という小僧がたずねて来ました。
「おかみさんはこちらへ来ていませんか。」
「さっき見えたんですけれど、これから市ヶ谷の占い者のところへ行く、といって帰りましたよ。」と、わたくしは正直に答えました。「そうして、おかみさんに何か用があるの。」
「ええ。」と、利吉は少し考えながら言いました。「実はおよっちゃんが……。」
「およっちゃんがどうして……。」と、わたくしはどきり[#「どきり」に傍点]としました。
「おかみさんが出ると、すぐ後から出て行って、いまだに帰って来ないんです。」
お由も家出をしたのでしょうか。わたくしは驚くのを通り越して、呆れてしまいました。
四
この場合ですから、会津屋でもむやみに騒ぐのでしょうが、お由はまだほんとうに家出したかどうだか判ったものではないと、利吉の帰ったあとでわたくしは考え直しました。そう思っても何
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