って、わたくし共がどうすることも出来ないのですから、母もわたくしも心配しながらその晩は遅く寝床にはいりました。夕立のあとは余ほど涼しくなったのでございますが、二人ながらおちおち眠られませんでした。
寝苦しい一夜を明かすと、あしたは晴れていて朝から暑くなりました。雷に撃たれた銀杏の木は、大きい枝を半分折られたのですが、その幹には蝉《せみ》が飛んで来て、ゆうべの事なんぞはなんにも知らないように朝からそうぞうしく鳴いていました。裏の井戸へ水を汲みに出ると、近所の娘やおかみさんが二、三人あつまって、ゆうべの女の噂で賑わっていました。そのなかで仕事師《しごとし》のおかみさんが、その後の成行きを一番よく知っていて、みんなに話して聞かせました。
「あの女はよい辰[#「よい辰」に傍点]という遊び人の娘で、去年まで新宿の芸妓をしていたんですとさ。それが近江屋という質屋の旦那の世話になって、今では商売をやめて家《うち》にぶらぶらしていたんだそうです。お父《とっ》さんは遊び人で、土地でも相当に顔が売れていた男なんですが、五、六年前からよいよい[#「よいよい」に傍点]になってしまって、この頃では草履をはいて、杖をついて、ようよう近所を歩くくらいのことしか出来なくなったので、世間ではよい辰[#「よい辰」に傍点]といっているんです。それでも娘がいい旦那をつかまえているので、まあ楽隠居のような訳だったのですが、その金箱《かねばこ》が不意にこんなことになってしまっては、お父《とっ》さんもさぞ力を落しているでしょうよ。若い時からずいぶん人を泣かせているから、年を取ってこうなるのは当り前だなんぞと言う人もありますけれど、なにしろ自分はよいよいになって、稼ぎ人のむすめに死なれたのですから、まったく気の毒ですよ。むすめの名ですか。娘はお春といって、芸妓に出ているときは小春といっていたそうです。小春が治兵衛と心中しないで、青大将を冥途の道連れじゃあ、あんまり可哀そうじゃありませんか。」
おかみさんは他人事《ひとごと》だと思って、笑いながら話していましたが、わたくしはその一言一句を聞きはずすまいと、一生懸命に耳を引っ立てていました。
「人の噂ですから、確かなことは判りませんがね。」と、おかみさんはまた言いました。「なんでもそのお春という女には内所の色男があって、きのうもそこへ逢いに行く途中で、あんなことになったらしいというんですよ。」
「それじゃあ、その男というのがこの辺にいるんでしょうか。」と、となりの左官《さかん》屋のむすめが訊きました。
「大方そうでしょうよ。うっかり出て来ると面倒だと思って、知らん顔をして引っ込んでいるんでしょうが、そんな不人情なことをすると、女の恨みがおそろしいじゃありませんか。女の思いが蛇と一緒になって執りつかれた日にゃあ、大抵の男も参ってしまいまさあね。」と、おかみさんはまた笑いました。
家へはいって、わたくしは母にそっと話しますと、母は考えていました。
「それにしても、まさかに叔父さんがその相手じゃあるまい。」
「そうでしょうねえ。」
「そりゃ男のことだから何ともいえないけれど、叔父さんは四十一で、親子ほども年が違うんだからねえ。」と、母はあくまでもそれを信じないような口ぶりでした。
叔父がその女の相手であるかないかは別として、ともかくも叔父がその女を識っているのは事実ですから、叔父が帰って来れば恐らく詳しいことも判るだろうと思われました。母はけさも会津屋へ出かけて行きましたが、叔父もお定もやはり音沙汰なしだというのでございます。
母と入れかわって、わたくしも見舞ながら会津屋へ行きますと、叔母はいろいろの苦労でゆうべはまんじりともしなかったということで、気ぬけがしたように唯《ただ》ぼんやりしていました。気の毒とも何とも言いようがありません。妹のお由はお稽古を休んで、きょうは家にいました。どなたも大抵お気付きになっていることと存じますが、きのうお定がわたくしと別れるときに、およっちゃんと仲よくしてくれと言いました。それから家へ帰って、間もなくどこへか行ってしまったのですから、覚悟の上の家出ではないかと思われます。
わたくしがなぜそれを母に洩らさないかといいますと、お定が家出をしたあとで迂濶にそんなことを言い出すと、そんなことがあったらば、なぜ早くわたしに言わないのかと母に叱られるのが怖ろしいので、ゆうべは勿論、けさになっても黙っていたのではございますが、こうして会津屋の店へ来て、叔母や店の人たちの苦労ありそうな顔をみていますと、わたくしももう黙ってはいられないような気になりました。
それでも、叔母に向っては言い出しにくいので、帰るときにお由を表へ呼出して、小声でそのことを話しますと、お由は案外平気な顔をしていました。
「あたし
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