だか不安心で、母の帰るのをいよいよ待っていますと、五つ(午後八時)をよほど過ぎた頃に、母は汗をふきながら帰って来ました。それでもほっとしたような顔をして、笑いながら話しました。
「およっちゃんは人騒がせに何を言ったんだろう。ふうちゃんは京橋のお店《たな》にちゃんと勤めているんだよ。」
 わたくしもまずほっとしました。
「それからいろいろ訊いてみたけれど、あの子はまったくなんにも知らないんだよ。およっちゃんももう十六だから、何かやきもちを焼いて、そんな詰まらないことを言ったんだろうが……。」と、母は嘲《あざけ》るようにまた笑いました。「人騒がせでも何でも構わない。それが嘘でまあまあよかったよ。もし本当だった日には、それこそ実に大変だからねえ。」
 母は安心したとみえて、暑いのも疲れたのも忘れたように、馬鹿に機嫌がいいのでございます。
 それをまたおどろかすのも気の毒でしたけれども、しょせん黙ってはいられないことですから、叔母がたずねて来たことと、お由が家出をしたらしいことを、逐一に話してきかせますと、母は「まあ」と言ったばかりで、折角の笑い顔がまた俄かにくもってしまいました。
「困ったねえ。まあ、なにしろ行ってみよう。」
 くたびれ足を引摺って、母はすぐに会津屋へ出かけて行きました。きのうから今日にかけて、新宿の女が雷に撃たれる。会津屋の姉妹のむすめが家出をする。叔父はどうしているのか判らない。よくもいろいろの事がそれからそれへと続くものだと思うと、もしや夢でも見ているのではないか。夢ならば早く醒めてくれればいいと祈っていました。暫くして母が帰って来まして、お由はまだ帰って来ない、どうも家出をしたらしいというのでございます。
「叔母さんはどうして……。」
「叔母さんは市ヶ谷から帰って来たけれど……。いよいよぼんやりしてしまって、本当に気の毒でならない。今度は叔母さんが気でも違やあしないかと思うと、心配だよ。」
 この上に叔母が気違いにでもなったらば、会津屋は闇です。母も幾らか捨て鉢になったとみえて、溜息をつきながらこんな事を言い出しました。
「ああ、いくら気を揉《も》んだって仕方がない。こんなことになるのも何かの因縁だろうよ。」
 まったく何かの因縁とでも諦めるのほかはありません。しかしそう諦めなければならないというのがいかにも悲しいことでございます。お由が帰ればすぐ
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