って来ました。
「まあちゃん。」
 わたくしを呼ぶ声がふだんと変っているので、なんだかぎょっとして振返ると、母は息をはずませながら小声で言い聞かせました。
「会津屋のさあちゃんが何処《どこ》へか行ってしまったとさ。」
「あら、さあちゃんが……。どうして……。」
 わたしもびっくりしました。

     三

 母の話はこういうのでございます。
 会津屋の姉お定は、きょうのお午《ひる》ごろに妹と一緒にお稽古から帰って、お午の御飯をたべてしまって、それから近所の糸屋へ糸を買いに行くといって出たままで帰って来ない。家でも不審に思って、糸屋へ聞合せにやると、お定はけさから一度も買い物に来ないという。いよいよ不思議に思って、妹のお由のお友達のところを二、三軒たずねて歩いたのですが、お定はやはりどこへも姿を見せないというのです。
 叔父は例の通りに、朝から家を出たぎりですから、叔母ひとりが頻《しき》りに心配しているうちに、夕立が降ってくる、雷が鳴るというわけで、母も妹も不安がますます大きくなるばかり。そのうちに夕立もやんだので、夕《ゆう》の御飯を食べてから、叔母はその相談ながらわたくしの家へ来るつもりであったそうでございます。そこへこちらから尋ねて行ったので、まあ丁度よいところへといったようなわけで、叔母は母にむかって早速にその話を始めたのです。こちらから話そうと思って出かけたところを、あべこべに向うから話しかけられて、母も少し面喰らったそうでございます。
 お定の家出にも驚かされましたが、こちらも話すだけのことは話さなければなりませんので、母もかの女のことを話し出しますと、叔母も不思議そうな顔をして聴いていました。そんな女については一向に心あたりがないと言ったそうで……。なにしろこの頃の叔父のことですから、どこにどういう知人が出来ているのか、叔母にも見当が付かないらしいのでございます。
 一方には会津屋のむすめが家出をする、一方には叔父に係り合いのあるらしい女が雷に撃たれている。この二つの事件がまるで別々であるのか、それともその間に何かの縁をひいているのか、それも一切《いっさい》わからないので、叔母も母もなんだか夢のような心持で、ただ溜息をついているばかりでしたが、一方の女のことはともかくも、娘の家出――多分そうだろうと思われるのですが、この方はそのままにして置くことは出来ま
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