が迎いに来た時に、おれが素直に戻れば何事もなかったものを……。思えばおれにも罪はある。今更お身を討ち果したとて、死んだ弟が返るでもない。おれは知らぬ振りをしているから、お身はどこへでも早く逃げろ。ここらにうろうろしていては詮議がむずかしい。京を離れたところへ身を隠してしまえ。おれはこれから河原へ行って、弟の死骸を始末して来る。そのあいだに支度しろ」
 こう言い聞かせて市之助はすぐに寝衣をぬいだ。着物を着換えて袴を穿いて、大小を腰に差して、急いで表へ出て行った。
 取り残された半九郎は、両手を膝において暫く考えていた。
 自分を免《ゆる》してくれた市之助の料簡は、彼にもよく判っていた。しかしそれは市之助だけの料簡で、仲のいい朋輩を殺して置いてただそのままに逃げてしまうというのは、自分としては忍ばれないことであった。しょせん自分は逃れることの出来ない罪を背負っている以上、なまじいに逃げ隠れをして捕われるのは恥の上塗《うわぬ》りである。兄が弟の仇を討たぬというならば、自分はいさぎよく自滅するほかはない。半九郎は切腹と決心した。
 初冬の夜もしだいに更《ふ》けて、清水寺《きよみずでら》の九つ(午後十二時)の鐘の音が水にひびいた。半九郎は仄暗《ほのぐら》い灯の前に坐って、自分の朋輩の血を染めた刃《やいば》に、更に自分の血を塗ろうとした。それが自分の罪を償《つぐの》う正当の手段であると考えた。
 彼がその刀を把《と》り直した時に、屏風のかげから幽霊のような女の顔があらわれた。お染はいつの間にか忍んで来ていたのであった。
「お染。聞いていたのか」
 お染はそこに泣き伏してしまった。
「市之助はおれに隠れろと言う。しかし半九郎にそんなうしろ暗いことは出来ぬ。正直に今ここで切腹する。若松屋のお染の客は人殺しとあすは世上《せじょう》に謳《うた》われて、お身も肩身が狭かろうが、これも因果《いんが》だ。堪忍してくれ」
「あの、わたしも一緒に死なして下さりませ」と、彼女は涙をすすりながら言った。
「いや、それは無分別。由《よし》ない義理を立てすごして、この半九郎に命までもくれようとは、親姉妹《おやきょうだい》の嘆きも思わぬか。おれには死ぬだけの罪がある。お前には何の係り合いもないことだ。知らぬていにして早く彼方《あっち》へゆけ」と、半九郎は小声で叱った。
 叱られても彼女は動かなかった。不仕合せな女に生まれながら、自分はお前というものに取りすがって、今日までこうして生きていたのである。そのお前にいよいよ別れる日が近づいて、自分の心はとうから死んだも同様であった。日本じゅうに二人とない、頼もしい人に引き分かれて、これから先の長い勤め奉公をとても辛抱の出来るものではない。店出しの宵からお前の揚げ詰めで、ほかの客を迎えたことのないわたしは、どこまでもお前ひとりを夫《おっと》として、清い女の一生を送りたいと思っている。それを察して一緒に殺してくれと、彼女は男の膝の前に身を投げ出して泣いた。
 半九郎も女の心を哀れに思った。彼も惨《いじ》らしいお染のからだを濁り江の暗い底に長く沈めて置きたくないので、重代の刀を手放しても、彼女を救いあげて親許へ送り帰してやりたいと思っていた。その志は空《くう》になって、しかもその刀で人を殺すような破滅に陥《おちい》った。こうなるからはいっそのこと、女を殺すのは却《かえ》って女を救うので、いわゆる慈悲の殺生《せっしょう》であるかも知れないと考えた。
 そう思って、彼は自分の前に俯伏《うつぶ》している若い女の細く白いうなじを今更のようにじっ[#「じっ」に傍点]と眺めた。ふさふさと黒く光った美しい髪の毛を見つめた。今まで彼女を愛していたとはまた一種違った温かい感情が彼の胸にだんだん漲《みなぎ》って来て、総身の若い血潮が燃えあがるようにも感じられた。
 半九郎がお染に対して、こうした不思議な感じを覚えたのは実に今夜が初めてであった。今夜の半九郎の眼に映ったお染は、遊女のお染ではなかった。清いおとめのお染であった。武士の妻としても恥かしからぬ一人の清いおとめであった。半九郎は言い知れない幸福を感じた。
「お前の心はよく判った。もう泣くな」と、半九郎は女の肩に手をかけて引き起した。
「あい」
 お染はおとなしく顔をあげた。彼女の眼には涙の玉が美しく光っていた。

 二人はその屍《かばね》を揚屋の座敷に横たえようとはしなかった。源三郎のあとを追って、屍を河原に晒《さら》そうともしなかった。いかなる人も遂にゆく鳥辺の山をかれらの墓と定めて、二人はそっと花菱をぬけ出した。
 後の作者は二人が死《しに》にゆく姿をえがくが如くに形容して、お染に対しては「女《おんな》肌には白|無垢《むく》や上にむらさき藤の紋、中着《なかぎ》緋紗綾《ひざや》に黒繻子《く
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