れた。
「はは、源三郎め、覚ったな」と、半九郎は歩きながらほほえんだ。
 彼の眼から見たらば、兄もおれも同じ放埒者《ほうらつもの》と見えるかも知れない。誰が眼にも、うわべから覗《のぞ》けばそう見えるであろう。しかし市之助とおれとは性根が違うぞと、半九郎は肚《はら》の中で笑っていた。市之助は行く先ざきで面白いことをすればいい、彼はそれで満足しているのである。おれはそうでない。おれは市之助のような放蕩者でない。おれはお染のほかに世間の女をあさろうとはしていない。同じ色町の酒を甞《な》めていながらも、市之助とおれとを一緒に見たら大きな間違いであるぞと、半九郎は浅黄に晴れた空の上に、大きく澄んで輝く月のひかりを仰ぎながら、お染のいる祇園町の方へ大股に歩いて行った。

     三

 半九郎とお染とが引き分けられなければならない時節が来た。
 今年の秋もあわただしく暮れかかって、九月の暦《こよみ》も終りに近づいた。鴨川の水にも痩せが見えて、河原の柳は朝寒《あささむ》に身ぶるいしながら白く衰えた葉を毎日振るい落した。そのわびしい秋の姿をお染は朝に夕に悲しく眺めた。九月の末か、十月の初めには将軍が京を立って江戸へ帰る――それは前から知れ切ったことであったが、その期日が次第に迫って来るに連れて、彼女は自分の命が一日ごとに削《けず》られてゆくようにも思われた。
 その沈んだ愁《うれ》い顔を見るにつけて、半九郎もいよいよ物の哀れを誘い出された。彼はある夜しみじみとお染に話した。
「将軍家が江戸表へ御下向《ごげこう》のことは、今朝《こんちょう》支配|頭《がしら》から改めて触れ渡された。この上はしょせん長逗留は相成るまい。遅くも来月の十日頃までには、一同京地を引き払うことになるであろう。お前に逢うのも今しばらくの間だ。昼夜揚げ詰めとはいいながら、馴染んでから丸ひと月に成るや成らずでさほどの深い仲でもないが、恋や情けはさておいて、まだ廓《さと》なれないお前が不憫《ふびん》さに、暇さえあればここへ来て、及ばぬながら力にもなってやったが、侍は御奉公が大切、お供にはずれていつまでもここに逗留は思いも寄らぬことだ。察してくれ」
 勿論それに対して、お染は何とも言いようはなかった。無理に引き止めることは出来なかった。たとい引き止めても、男が止まる筈がないのは、彼女もよく承知していた。半九郎が今まで自分を優しく庇《かば》ってくれたのは、世にありふれた色恋とは違って、弱い者を憐れむという涙もろい江戸かたぎから生み出されていることは、彼女もかねて知っていた。まして将軍家の供をして、江戸の侍が江戸へ帰るのは当然のことである。彼女は自分を振り捨ててゆく男を微塵《みじん》も怨む気はなかった。
 怨むのではない。ただ、悲しいのである。心細いのである。店出し以来、たった一人の半九郎に取りすがって、今日まで何の苦も知らずに生きていたお染は、さてこの後《のち》どうするか。彼女は眼の前に拡がっている大きい闇の奥をすかして見る怖ろしさに堪えられなかった。
「また泣くか。初めて逢った夜にもお前はそんな泣き顔をしていたが、その時から見ると又やつれたぞ。煩《わずら》わぬようにしろ」
「いっそ煩うて死にとうござります」
 言ううちにも、止めどもなしに突っかけて溢れ出る涙は、白粉の濃い彼女の頬に幾筋の糸を引いて流れた。半九郎は痛ましそうに眉を皺《しわ》めて言った。
「今の若い身で死んでどうする。両親の悲しみ、妹の嘆き、それを思いやったら仮りにもそのようなことは言われまい。一日も早く勤めを引いて、親許へ帰って孝行せい」
「一日も早くというて、それが今年か来年のことか。ここの年季《ねんき》は丸六年、わたしのような孱弱《かよわ》い者は、いつ煩ろうていつ死ぬやら」
「はて、不吉な。気の弱いにも程がある。ほかの女どものように浮きうきして、晴れやかな心持ちで面白そうに世を送れ。これから五年六年といえば長いようだが、過ぎてしまうのは夢のうちだ」と、半九郎は諭《さと》すように言い聞かせた。
 ひとには面白そうに見えるかも知れないが、およそここらに勤めている人に涙の種のない者はない。現にあの市さまの相方のお花女郎も、親の上、わが身の上にいろいろの苦労がある。まして自分のように胸の狭いものは、こののち一日でも面白そうに暮らされよう筈がない。店出しから今日までの短い月日が極楽、この先の長い月日は地獄の暗闇と、自分ももうあきらめているとお染はまた泣きつづけた。
 困ったものだと半九郎も思いわずらった。彼はこのいじらしい女をどう処分しようかといろいろに迷った末に、あくる朝、坂田市之助の宿所をたずねると、市之助はめずらしく宿にいた。源三郎もいた。
 過日《このあいだ》の晩、半九郎は途中で源三郎に約束して、あしたはきっと兄
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