は、急に世界が変ったように明るく華やかに感じられた。酒と白粉との匂いが紅い灯の前にとけて漲《みなぎ》っていた。お染の涙を誘い出した秋の蛙の声は、ここまで聞えなかった。彼女はやはり俯向《うつむ》きがちで、生きた飾り物のようにおとなしく坐っていたが、それでも時どきにそっと眼をあげて、自分の客という人を見定めようとした。
客は二十歳《はたち》をようよう一つか二つぐらい越えたらしい若侍であった。色の浅黒い、一文字の眉の秀《ひ》いでているのがお染の眼についた。彼は多くしゃべらないで、黙って酒を飲んでいた。酒量はかなりに強い人らしいとお染は思った。
酒の強い人――それは年の若い彼女に余りいい感じを与えなかったが、それを十分に打ち消すだけの強い信仰がお染の胸に満ちていた。それは彼の親切であった。同情であった。花代を払ってすぐに帰してやる――ある女はそれを喜ぶであろうが、ある女はかえって不快を感じるかも知れない。しかし今夜のお染にはそれが譬《たと》えようもないほどに嬉しかった。花代はむしろ第二の問題で、悲しい頼りない身をそれほどに優しくいたわってくれたという、その親切が胸の奥まで沁み透るほどに嬉しかったのである。彼女は男の顔をぬすむように折りおりに窺《うかが》いながら、今までとは違った意味で涙ぐまれた。
四つ(午後十時)ごろに酒の座敷はあけた。六人の客は銘々の相方に誘われて、鳰《にお》の浮巣をたずねに行ったが、お染の客だけは真っ直ぐに帰った。お染とお雪は暖簾口《のれんぐち》まで送って出た。
「またのお越しをお待ち申します」と、お雪はうしろから声をかけた。
「おお、また来る。その女を主人に叱らせてくれるな」
夜露に濡《ぬ》れてゆく男のうしろ姿を、お染は言い知れない悲しい心持ちで見送っていると、冷たい秋風は水色の暖簾をなびかせて、彼女の陰った眉《まゆ》を吹いた。
二
その次の夜にも、かの坂田という馴染み客が先立ちで、五人の侍が花菱に来た。先度の連れが二人減っているからは、無論お染の客も欠けているであろうと想像していたお雪は、座敷の明るいところで一座の顔を見渡して案外に思った。お染の客は今夜も五人の中にまじっていた。
坂田の女のお花は無論に来た。ほかの女たちも来た。お染も来た。坂田はいつものように陽気に飲んで騒ぎ立てた。その笑いさざめく座敷の中で、お染はやはり俯
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