。八日《ようか》九日《ここのか》の二日《ふつか》は出発前でいろいろの勤めがあるのは判り切っているので、今夜は思う存分に騒ぎ散らして帰ろうと、彼は羽目《はめ》をはずして浮かれていた。半九郎もお染に逢うのは今夜限りだと思っていた。
もう泣いても笑っても仕方がないと、お染もきのう今日は諦めてしまった。いつも沈んだ顔ばかりを見せて男の心を暗い方へ引き摺って行くのは、これまでの恩となさけに対しても済まないことであると思ったので、彼女も今夜は努《つと》めて晴れやかな笑顔を作っていた。お花は無論に浮きうきしていた。今夜がいよいよのお別れであるというので、馴染みの女や仲居なども大勢寄って来て、座敷はいつもより華やかに浮き立った。
内心はともかくも、お染の顔が今夜は晴れやかに見えたので、半九郎も少し安心した。安心すると共に、彼はふだんよりも多く飲んだ。ことに今夜は市之助という飲み相手があるので、彼はうかうか[#「うかうか」に傍点]と量をすごして、お染の柔かい膝《ひざ》を枕に寝ころんでしまった。
「半さま。御家来の衆が見えました」と、仲居のお雪が取次いで来た。
「八介《はちすけ》か。何の用か知らぬが、これへ来いと言え」と、半九郎は寝ころんだままで言った。
若党の八介はお雪に案内されて来たが、満座の前では言い出しにくいと見えて、彼は主人を廊下へ呼び出そうとした。
「旦那さま。ちょっとここまで……」
「馬鹿め」と、半九郎はやはり頭をあげなかった。「用があるならここへ来い」
「は」と、八介はまだ躊躇していたが、やがて思い切って座敷へいざり込んで来た。
「用は大抵判っている。迎いに来たのか」と、半九郎は不興らしく言った。
「左様でござります」
御用の道中であるから銘々の荷物は宿々《しゅくじゅく》の人足どもに担がせる。その混乱と間違いとを防ぐために、組ごとに荷物をひと纏めにして、その荷物にはまた銘々の荷札をつける。それを今夜じゅうにみな済ませて置けという支配頭からの達しが俄かに来た。八介一人では判らないこともあるから、ひとまず帰ってくれというのであった。
「うるさいな。あしたでもよかろうに……」
「でも、一度になっては混雑するから、今夜のうちに取りまとめて置けとのことでござります」
「市之助。お身は帰るか」と、半九郎は酔っている連れにきいた。
「弟が何とかするであろうよ」と、市之助は相変
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