た。
その晩は夜半から冷たい雨がしとしと[#「しとしと」に傍点]と降り出して来た。お染は自分の客が菊地半九郎《きくちはんくろう》という侍で、新しい三代将軍の供をしてこのごろ上洛したものであることを初めて知った。お花の客が坂田市之助という男であることも、半九郎の口から正直に言い聞かされた。
お染も自分の身の上を男に打明けた。自分は六条に住んでいる与兵衛《よへえ》という米屋の娘で、商売の手違いから父母はことし十五の妹娘を連れて、裏家《うらや》へ逼塞《ひっそく》するようになり下がった。それが因果で自分は二百両という金《かね》の代《しろ》にここへ売られて来たのである。ゆうべは初めての店出しでお前さまに逢った。今夜も逢った。そうして、ほんとうの客になって貰った。しかし勤めの身は悲しいもので、あすはどういう客に逢おうも知れないと、彼女は枕紙《まくらがみ》を濡らして話した。
半九郎は暗い顔をして聴いていたが、やがて思い切って言った。
「よい。判った。心配するには及ばぬ。あしたからは夜も昼もおれが揚げ詰《づ》めにして、ほかの客の座敷へは出すまい」
「ありがとうござります」と、お染は手をあわせて拝《おが》んだ。
江戸の侍に嘘はなかった。半九郎はあくる日からお染を揚げ詰めにして、自分ひとりのものにしてしまった。店出しの初めから仕合せな客を取り当てたと、若松屋の主人も喜んだ。お雪も喜んだ。朋輩たちも羨《うらや》んだ。
坂田市之助も花菱へたびたび遊びに来た。しかし彼はお花のほかにも幾人かの馴染みの女をもっているらしく、方々の揚屋を浮かれ歩いていた。
「わたしの人にくらべると、半さまは情愛のふかい、正直一方のお人、お前と二人が睦まじい様子を見せられると、妬《ねた》ましいほどに羨まれる」と、お花は折りおりにお染をなぶった。なぶられて、お染はいつもあどけない顔を真紅《まっか》に染めていた。
半月あまりは夢のようにたった。十三夜は月が冴えていた。半九郎は五条に近い宿を出て、いつものように祇園へ足を向けてゆくと、昼のように明るい路端《みちばた》で一人の若侍に逢った。
「半九郎どのか」
「源三郎《げんざぶろう》、どこへゆく」と、半九郎は打ち解けてきいた。
「兄をたずねて……」
「何ぞ用か」
「毎日毎晩あそび暮らしていては勤め向きもおろそかになる。兄の放埒《ほうらつ》にも困り果てた」と、源三
前へ
次へ
全25ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング