て死んだ。何分にも本人自身の書置きがあって、豪家の無罪は証明されているのであるから、役人たちもどうすることも出来ないで、この一件は無事に落着《らくぢゃく》した。
張の死んだ後、豪家も最初は約束を守っていたが、だんだんにそれを怠るようになったので、張の老母は怨み憤って官に訴えたが、張が自筆の生き証拠がある以上、今更この事件の審議をくつがえす事は出来なかった。
しかもその豪家の主人は、ある夜、酒に酔ってかの川べりを通ると、馬がにわかに駭《おどろ》いたために川のなかへ転げ落ちて、あたかも張とおなじ場所で死んだ。
知る者はみな張に背いた報いであると言った。世の訴訟事件には往々《おうおう》こうした秘密がある。獄を断ずる者は深く考えなければならない。
飛天夜叉
烏魯木斉《ウロボクセイ》は新疆《しんきょう》の一地方で、甚だ未開|辺僻《へんぺき》の地である(筆者、紀暁嵐は曾《かつ》てこの地にあったので、烏魯木斉地方の出来事をたくさんに書いている)。その把総《はそう》(軍官で、陸軍|少尉《しょうい》の如きものである)を勤めている蔡良棟《さいりょうとう》が話した。
この地方が初めて平定した時、四方を巡回して南山の深いところへ分け入ると、日もようやく暮れかかって来た。見ると、渓《たに》を隔てた向う岸に人の影がある。もしや瑪哈沁《ひょうはしん》(この地方でいう追剥《おいは》ぎである)ではないかと疑って、草むらに身をひそめて窺うと、一人の軍装をした男が磐石の上に坐って、そのそばには相貌|獰悪《どうあく》の従卒が数人控えている。なにか言っているらしいが、遠いのでよく聴き取れない。
やがて一人の従卒に指図して、石の洞《ほら》から六人の女をひき出して来た。女はみな色の白い、美しい者ばかりで、身にはいろいろの色彩《いろどり》のある美服を着けていたが、いずれも後ろ手にくくり上げられて恐るおそるに頭《かしら》を垂れてひざまずくと、石上の男はかれらを一人ずつ自分の前に召し出して、下衣《したぎ》を剥《ぬ》がせて地にひき伏せ、鞭《むち》をあげて打ち据えるのである。打てば血が流れ、その哀号《あいごう》の声はあたりの森に木谺《こだま》して、凄惨実に譬《たと》えようもなかった。
その折檻が終ると、男は従卒と共にどこへか立ち去った。女どもはそれを見送り果てて、いずれも泣く泣く元の洞へ帰って行った。男は何者であるか、女は何者であるか、もとより判らない。一行のうちに弓をよく引く者があったので、向う岸の立ち木にむかって二本の矢を射込んで帰った。
あくる日、廻り路をして向う岸へ行き着いて、きのうの矢を目じるしに捜索すると、石の洞門は塵《ちり》に封じられていた。松明《たいまつ》をとって進み入ると、深さ四丈ばかりで行き止まりになってしまって、他には抜け路もないらしく、結局なんの獲《う》るところもなしに引き揚げて来た。
蔡はこの話をして、自分が烏魯木斉にあるあいだに目撃した奇怪の事件は、これをもって第一とすると言った。わたしにも判らないが、太平広記に、天人が飛天夜叉《ひてんやしゃ》を捕えて成敗する話が載せてある。飛天夜叉は美女である。蔡の見たのも或いはこの夜叉のたぐいであるかも知れない。
喇嘛教
喇嘛教《らまきょう》には二種あって、一を黄教といい、他を紅教といい、その衣服をもって区別するのである。黄教は道徳を講じ、因果を明らかにし、かの禅家《ぜんけ》と派を異《こと》にして源を同じゅうするものである。
但し紅教は幻術《げんじゅつ》を巧みにするものである。理藩院《りはんいん》の尚書を勤める留《りゅう》という人が曾て西蔵《ちべっと》に駐在しているときに、何かの事で一人の紅教喇嘛に恨まれた。そこで、或る人が注意した。
「彼は復讐をするかも知れません。山登りのときには御用心なさい」
留は山へ登るとき、輿や行列をさきにして、自分は馬に乗って後から行くと、果たして山の半腹に至った頃に、前列の馬が俄かに狂い立って、輿をめちゃめちゃに踏みこわした。輿は無論に空《から》であった。
また、烏魯木斉に従軍の当時、軍士のうちで馬を失った者があった。一人の紅教喇嘛が小さい木の腰掛けをとって、なにか暫く呪文を唱えていると、腰掛けは自然にころころと転がり始めたので、その行くさきを追ってゆくと、ある谷間《たにあい》へ行き着いて、果たしてそこにかの馬を発見した。これは著者が親しく目撃したことである。
案ずるに、西域《せいいき》に刀を呑み、火を呑むたぐいの幻術を善くする者あることは、前漢時代の記録にも見えている。これも恐らくそれらの遺術を相伝したもので、仏氏の正法《しょうほう》ではない。それであるから、黄教の者は紅教徒を称して、あるいは魔といい、あるいは波羅門《ばらもん》という。す
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