中国怪奇小説集
池北偶談
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)清《しん》朝も

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)相|列《なら》んで、

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+隹」、第3水準1−88−87]陽《すいよう》
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 第十三の男は語る。
「清《しん》朝もその国初の康煕《こうき》、雍正《ようせい》、乾隆《けんりゅう》の百三十余年間はめざましい文運隆昌の時代で、嘉慶《かけい》に至って漸く衰えはじめました。小説筆記のたぐいも、この隆昌時代に出たものは皆よろしいようでございます。わたくしはこれから王士禎《おうしてい》の『池北偶談』について少しくお話をいたそうと存じます。王士禎といってはお判りにならないかも知れませんが、王漁洋《おうぎょよう》といえば御存じの筈、清朝第一の詩人と推される人物で、無論に学者でございます。
 この『池北偶談』はいわゆる小説でもなく、志怪の書でもありません。全部二十六巻を談故、談献、談芸、談異の四項に分けてありまして、談異はその七巻を占めて居ります。右の七巻のうちから今夜の話題に適したようなものを選びまして、大詩人の怪談をお聴きに入れる次第でございます」

   名画の鷹

 武昌《ぶしょう》の張氏《ちょうし》の嫁が狐に魅《みこ》まれた。
 狐は毎夜その女のところへ忍んで来るので、張の家では大いに患《うれ》いて、なんとかして追い攘《はら》おうと試みたが、遂に成功しなかった。
 そのうちに、張の家で客をまねくことがあって、座敷には秘蔵の掛物をかけた。それは宋《そう》の徽宗《きそう》皇帝の御筆《ぎょひつ》という鷹《たか》の一軸である。酒宴が果てて客がみな帰り去った後、夜が更《ふ》けてからかの狐が忍んで来た。
「今夜は危なかった。もう少しでひどい目に逢うところであった」と、狐はささやいた。
「どうしたのです」と、女は訊《き》いた。
「おまえの家の堂上に神鷹《しんよう》がかけてある。あの鷹がおれの姿をみると急に羽ばたきをして、今にも飛びかかって来そうな勢いであったが、幸いに鷹の頸《くび》には鉄の綱が付いているので、飛ぶことが出来なかったのだ」
 女は夜があけてからその話をすると、家内の者どもも不思議に思った。
「世には名画の奇特《きどく》ということがないとは言えない。それでは、試しにその鷹の頸に付いている綱を焼き切ってみようではないか」
 評議一決して、その通りに綱を切って置くと、その夜は狐が姿をみせなかった。翌る朝になって、その死骸が座敷の前に発見された。かれは霊ある鷹の爪に撃ち殺されたのであった。
 その後、張の家は火災に逢って全焼したが、その燃え盛る火焔《ほのお》のなかから、一羽の鷹の飛び去るのを見た者があるという。

   無頭鬼

 張献忠《ちょうけんちゅう》はかの李自成《りじせい》と相|列《なら》んで、明《みん》朝の末期における有名の叛賊である。
 彼が蜀《しょく》の成都《せいと》に拠って叛乱を起したときに、蜀王の府をもってわが居城としていたが、それは数百年来の古い建物であって、人と鬼とが雑居のすがたであった。ある日、後殿のかたにあたって、笙歌の声が俄かにきこえたので、彼は怪しんでみずから見とどけにゆくと、殿中には数十の人が手に楽器を持っていた。しかも、かれらにはみな首がなかった。
 さすがの張献忠もこれには驚いて地に仆《たお》れた。その以来、かれは其の居を北の城楼へ移して、ふたたび殿中には立ち入らなかった。

   張巡の妾

 唐《とう》の安禄山《あんろくざん》が乱をおこした時、張巡《ちょうじゅん》は※[#「目+隹」、第3水準1−88−87]陽《すいよう》を守って屈せず、城中の食尽きたので、彼はわが愛妾を殺して将士に食《は》ましめ、城遂におちいって捕われたが、なお屈せずに敵を罵って死んだのは有名の史実で、彼は世に忠臣の亀鑑《きかん》として伝えられている。
 それから九百余年の後、清《しん》の康煕《こうき》年間のことである。会稽《かいけい》の徐藹《じょあい》という諸生が年二十五で※[#「やまいだれ+「暇」のつくり」、第3水準1−88−51]《か》という病いにかかった。腹中に凝り固まった物があって、甚だ痛むのである。その物は腹中に在って人のごとくに語ることもあった。勿論、こういう奇病であるから、療治の効もなく、病いがいよいよ重くなったときに、一人の白衣を着た若い女がその枕元に立って、こんなことを言って聞かせた。
「あなたは張巡が妾を殺したことを御存じですか。あなたの前の世は張巡で、わたしはその妾であったのです。あなたが忠臣であるの
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