ひと通りでありませんでした。
 元の至正《しせい》二十年の正月のことでございます。鎮明嶺《ちんめいれい》の下《もと》に住んでいる喬生《きょうせい》という男は、年がまだ若いのに先頃その妻をうしなって、男やもめの心さびしく、この元宵の夜にも燈籠見物に出る気もなく、わが家の門《かど》にたたずんで、むなしく往来の人びとを見送っているばかりでした。十五日の夜も三更《さんこう》(午後十一時―午前一時)を過ぎて、往来の人影も次第に稀になった頃、髪を両輪《りょうわ》に結んだ召仕い風の小女が双頭の牡丹燈をかかげて先に立ち、ひとりの女を案内して来ました。女は年のころ十七、八で、翠《あお》い袖、紅《あか》い裙《もすそ》の衣《きもの》を着て、いかにもしなやかな姿で西をさして徐《しず》かに行き過ぎました。
 喬生は月のひかりで窺うと、女はまことに国色《こくしょく》ともいうべき美人であるので、我にもあらず浮かれ出して、そのあとを追ってゆくと、女もやがてそれを覚《さと》ったらしく、振り返ってほほえみました。
「別にお約束をしたわけでもないのに、ここでお目にかかるとは……。何かのご縁でございましょうね」
 それをしお
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