中国怪奇小説集
輟耕録
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)明《みん》代も
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)農民|劉義《りゅうぎ》
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第十一の男は語る。
「明《みん》代も元《げん》の後を亨《う》けて、小説戯曲類は盛んに出て居ります。小説では西遊記《さいゆうき》、金瓶梅《きんぺいばい》のたぐいは、どなたもよく御承知でございます。ほかにもそういう種類のものはたくさんありますが、わたくしは今晩の御趣意によりまして、陶宗儀《とうそうぎ》の『輟耕録』を採ることにいたしました。陶宗儀は天台の人で、元の末期に乱を避けて華亭《かてい》にかくれ、明朝になってから徴《め》されても出でず、あるいは諸生に教授し、あるいは自ら耕して世を送りました。元来著述を好む人で、田畑へ耕作に出るときにも必ず筆や硯をたずさえて行って、暇があれば樹の下へ行って記録していたそうです。この書に輟耕の名があるのはそれがためでしょう。原名は『南村輟耕録』というのだそうですが、普通には単に『輟耕録』として伝わって居ります。この書は日本にも早く渡来したと見えまして、かの、『飛雲渡』や、『陰徳延寿』の話などは落語の材料にもなり、その他の話も江戸時代の小説類に飜案されているのがありまして、捜神記や酉陽雑爼に次いで、われわれ日本人にはお馴染みの深い作物でございます」
飛雲渡
飛雲渡《ひうんど》は浪や風がおだやかでなくて、ややもすれば渡船の顛覆《てんぷく》するところである。ここに一人の青年があって、いわゆる放縦不覊《ほうじゅうふき》の生活を送っていたが、ある時その生年月日をもって易者に占ってもらうと、あなたの寿命は三十を越えないと教えられた。
彼もさすがにそれを気に病んで、その後幾人の易者に見てもらったが、その占いはほとんど皆一様であったので、彼もしょせん短い命とあきらめて、妻を娶《めと》らず、商売をも努めず、家財をなげうって専ら義侠的の仕事に没頭していると、ある日のことである。彼がかの飛雲渡の渡し場付近を通りかかると、ひとりの若い女が泣きながらそこらをさまよっていて、やがて水に飛び込もうとしたのを見たので、彼はすぐに抱きとめた。
「お前さんはなぜ命を粗末にするのだ」
「わたくしは或る家に女中奉公をしている者でございます」と、女は答えた。「主人の家《うち》に婚礼がありまして、親類から珠《たま》の耳環《みみわ》を借りました。この耳環は銀三十錠の値いのある品だそうでございます。今日それを返して来るように言い付けられまして、わたくしがその使いにまいる途中で、どこへか落してしまいましたので……。今さら主人の家へも帰られず、いっそ死のうと覚悟をきめました」
青年はここへ来る途中で、それと同じような品を拾ったのであった。そこでだんだんに訊いてみると確かにそれに相違ないと判ったが、先刻から余ほどの時間が過ぎているので、その帰りの遅いのを怪しまれては悪いと思って、彼はその女を主人の家へ連れて行って、委細のわけを話して引き渡した。主人は謝礼をするといったが、彼は断わって帰った。
それから一年ほどの後、彼は二十八人の道連れと一緒に再びこの渡し場へ来かかると、途中で一人の女に出逢った。女はかの耳環を落した奉公人で、その失策から主人の機嫌を損じて、とうとう暇を出されて、ある髪結床へ嫁にやられた。その店は渡し場のすぐ近所にあるので、女は先年のお礼を申し上げたいから、ともかくも自分の家へちょっと立ち寄ってくれと、無理にすすめて彼を連れて行った。夫もかねてその話を聞いているので、女房の命の親であると尊敬して、是非とも午飯《ひるめし》を食って行ってくれと頼むので、彼はよんどころなくそこに居残ることになって、他の一行は舟に乗り込んだ。
残された彼は幸いであった。他の二十七人を乗せた舟がこの渡し場を出ると間もなく、俄かに波風があらくなったので、舟はたちまち顛覆して、一人も余さずに魚腹に葬られてしまった。
青年は不思議に命を全《まっと》うしたばかりでなく、三十を越えても死なないで、無事に天寿を保った。この渡しは今でも温《うん》州の瑞安《ずいあん》にある。
女の知恵
姚忠粛《ちょうちゅうしゅく》は元《げん》の至元《しげん》二十年に遼東《りょうとう》の按察使《あんさつし》となった。
その当時、武平《ぶへい》県の農民|劉義《りゅうぎ》という者が官に訴え出た。自分の嫂《あによめ》が奸夫と共謀して、兄の劉|成《せい》を殺したというのである。県の尹《いん》を勤める丁欽《ていきん》がそれを吟味すると、前後の事情から判断して、劉の訴えは本当であるらしい。しかも死人のからだにはなんの疵《きず》のあとも残っていないのである。さりとて、毒殺したよ
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