中国怪奇小説集
続夷堅志・其他
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)金《きん》・

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)白金一|笏《こつ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+牽」、235−8]馬嶺《けんばれい》
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 第十の男は語る。
「わたくしは金《きん》・元《げん》を割り当てられました。御承知の通り、金は朔北《さくほく》の女真族《じょしんぞく》から起って中国に侵入し、江北に帝と称すること百余年に及んだのですから、その文学にも見るべきものがある筈ですが、小説方面はあまり振わなかったようです。そのなかで、学者として、詩人として、最も有名であるのは元好問《げんこうもん》でありましょう。彼は本名よりも、その雅号の元遺山《げんいざん》をもって知られて居ります。前に『夷堅志』が紹介された関係上、ここでは元遺山の『続夷堅志』を紹介することに致しました。
 元は小説戯曲勃興の時代と称せられ、例の水滸伝《すいこでん》のごとき大作も現われて居りますが、今晩のお催しの御趣意から観《み》ますると、戯曲は勿論例外であり、小説の方面にも多く採るべきものを見いだし得ないのは残念でございます。就いてはまず『続夷堅志』を主として、それに元代諸家の作を付け加えることにとどめて置きました」

   梁氏の復讐

 戴十《たいじゅう》というのはどこの人であるか知らないが、兵乱の後は洛陽の東南にある左家荘《さかそう》に住んで、人に傭《やと》われて働いていた。いわゆる日傭《ひよう》取りのたぐいで、甚だ貧しい者であった。
 金《きん》の大定《たいてい》二十三年の秋八月、ひとりの通事(通訳)が畑の中に馬を放して豆を食わせていた。それは通事が所有の畑ではなく、戴が傭われて耕作している土地であるので、戴はその狼藉《ろうぜき》を見逃がすわけには行かなかった。彼はその馬を叱って逐《お》い出した。
 それをみて通事は大いに怒った。彼は策《むち》をもって戴をさんざんに打ち据えて、遂に無残に打ち殺してしまったので、戴の妻の梁氏《りょうし》は夫の死骸を営中へ舁《か》き込んで訴えた。通事は人殺しの罪をもって捕えられた。
 この通事は身分の高い家に仕えている者であったので、その主人が牛三頭と白金一|笏《こつ》をつぐなうことにして、梁氏に示談を申し込んだ。
「夫の代りにあの男の命を取ったところで、今更どうなるものではあるまい。夫の死んだのは天命とあきらめてはくれまいか。おまえの家は貧しい上に、二人の幼い子供が残っている。この金と牛とで自活の道を立てた方が将来のためであろう」
 他の人たちも成程そうだと思ったが、梁氏は決して承知しなかった。
「わたしの夫が罪なくして殺された以上、どうしても相手を安穏《あんのん》に捨てて置くことは出来ません。この場合、損得などはどうでもいいのです。たとい親子が乞食になっても構いませんから、あの男を殺させてください」
 こうなると、手が着けられないので、他の人たちも持てあました。
「おまえは自分であの男を殺すつもりか」と、一人が訊《き》いた。
「勿論です。なに、殺せないことがあるものか」
 彼女は袖をまくって、用意の刃物を突き出した。その権幕が怖ろしいので、人びとも思わずしりごみすると、梁氏は進み寄って縄付きの通事を切った。しかもひと思いには殺さないで、幾度も切って、切って、切り殺した。そうして、いよいよ息の絶えたのを見すまして、彼女はその血をすくって飲んだ。あまりの怖ろしさに、人びとはただ呼吸《いき》をのんでいると、彼女は二人の子を連れて、そのままどこへか立ち去った。[#地から1字上げ](続夷堅志)

   樹を伐る狐

 鄭《てい》村の鉄李《てつり》という男は狐を捕るのを商売にしていた。大定《たいてい》の末年のある夜、かれは一羽の鴿《はと》を餌《えさ》として、古い墓の下に網を張り、自分はかたわらの大樹の上に攀《よ》じ登ってうかがっていると、夜の二更《にこう》(午後九時―十一時)とおぼしき頃に、狐の群れがここへ集まって来た。かれらは人のような声をなして、樹の上の鉄を罵った。
「鉄の野郎め、貴様は鴿一羽を餌にして、おれたちを釣り寄せるつもりか。貴様の親子はなんという奴らだ。まじめな百姓わざも出来ないで、明けても暮れても殺生《せっしょう》ばかりしていやあがる。おれたちの六親眷族《ろくしんけんぞく》はみんな貴様たちの手にかかって死んだのだ。しかし今夜こそは貴様の天命も尽きたぞ。さあ、その樹の上から降りて来い。降りて来ないと、その樹を挽《ひ》き倒すぞ」
 なにを言やあがると、鉄も最初は多寡《たか》をくくっていたが、狐らはほんとうに樹を伐るつもりであるらしく、のこぎりで幹を伐るような音がきこえはじめた。そうして、釜の火を焚《た》け、油を沸かせと罵り合う声もきこえた。かれらは鉄をひきおとして油|煎《い》りにする計画であることが判ったので、彼も俄かに怖ろしくなったが、今更どうすることも出来ない。
「ともかくも樹にしっかりとかじり付いているよりほかはない。万一この樹が倒されたら、腰につけている斧《おの》で手当り次第に叩っ斬ってやろう」と、彼は度胸を据えていた。
 幸いに何事もないうちに夜が明けかかったので、狐らはみな立ち去った。鉄もほっとして樹を降りると、幹にはのこぎりの痕《あと》らしいものも見えなかった。ただそこらに牛の肋骨《あばらぼね》が五、六枚落ちているのを見ると、かれらはこの骨をもってのこぎりの音を聞かせたらしい。
「畜生め。おれを化かして嚇《おど》かしゃあがったな。今にみろ」
 かれは爆発薬を竹に巻き、別に火を入れた罐を用意して、今夜も同じところへ行くと、やはり二更に近づいた頃に、狐の群れが又あつまって来て樹の上にいる彼を罵った。それを黙って聴きながら、鉄は爆薬に火を移して投げ付けると、凄まじい爆音と共に火薬が破裂したので、狐らはおどろいて逃げ散るはずみに、我から網にかかるものが多かった。鉄は斧をもって片端から撲《なぐ》り殺した。[#地から1字上げ](同上)

   兄の折檻

 王《おう》という役人は大定年中に死んだ。その末の弟の王|確《かく》というのは大酒飲みの乱暴で、亡き兄の妻や幼な児をさんざんに苦しめるのであるが、どうにも抑え付けようがないので、一家は我慢に我慢して日を送っていた。
 そういう苦労がつづいたために、妻はとうとう病いの床に就くようになった。ある夜のことである。夜も更けて、ともしびも消えたとき、暗いなかで何やら衣摺《きぬず》れのような音が低くきこえた。やがてまた、そこらの双陸《すごろく》や棋石《ごいし》に触れるような響きがして、誰か幽《かす》かな溜め息をついているようにも聞かれた。
 それが亡き夫の霊で、乱暴者の弟が勝負事にふけるのを嘆息しているのではないかとも思われたので、彼女は泣いて訴えた。
「末の叔父さんには困り切ります。さりとてお上《かみ》で罰して下さるというわけにも行かず、このままにしていたら私たち母子《おやこ》はどうなるか判りません」
 それから五、六日を過ぎないうちに、王確は酔って襄《じょう》という所へ出かけた。帰りには日が暮れて、趙《ちょう》という村まで来かかると、路のまんなかで兄の王に出逢った。とうに死んでいる筈の兄は、地に筋を引いて一々に弟の罪状をかぞえ立てた上に、馬の策《むち》をふるって続け打ちに打ち据えたので、さすがの乱暴者も頭を抱えて逃げ廻って、僅《わず》かに自分の家へ帰ることが出来た。
 燈火《あかり》の下でよく視ると、彼の着物はさんざんに破れているばかりか、背中一面が青く腫れあがっていたので、彼はいよいよおびやかされた。翌朝かれは兄の画像の前に百拝して、以来は決して酒を飲まなくなった。[#地から1字上げ](同上)

   古廟の美人

 広寧《こうねい》の閭山公《ろざんこう》の廟は霊験いやちこなるをもって聞えていた。殊にその木像が甚だ獰悪《どうあく》である上に、周囲には古木うっそうとして昼なお暗いほどであるので、夜は勿論、白昼でもここに入るものは毛髪おのずから立つという物凄い場所であった。夜が更けると、神か鬼か知らず、廟内で罪人を拷問《ごうもん》するような声がきこえるという噂も伝えられた。
 参知政事の梁粛《りょうしゅく》は、若い時にこの郷《さと》の※[#「てへん+牽」、235−8]馬嶺《けんばれい》というところに住んでいた。彼は挙子《きょし》となって他の諸生と夏期講習の勉強をしている間に、あるとき鬼神に関する噂が出て、誰が強かったとか、誰が偉かったとか言っていると、梁は傲然《ごうぜん》として言った。
「わたしはどの人も強いとは思わない。そんなことは誰にでも出来るのだ。論より証拠で、わたしは日が暮れてから閭山の廟へ行って、廟のなかを一周してみせる」
「ほんとうに行くか」
「おお、いつでも行く」
「行ったという証拠をみせるか」
「わたしが通ったところには、壁や板に何かのしるしを付けて置く」と、梁は答えた。
 若い者にはよくある習いで、その明くる晩いよいよ一緒にゆくことになった。但し他の諸生は門外に待っていて、梁ひとりが廟内の奥深く進み入るのである。彼は恐るる色なく、木立ちのあいだをくぐりぬけて、古廟のうちへ踏み込むと、灯《ひ》ひとつの光りもないので、あたりは真の闇であった。手探りでしるしを付けながら、だんだんに廟の東の隅まで廻ってゆくと、何者かが壁に倚りかかっているのを探り当てた。それが人であるか鬼であるか判らないので、梁は門外へ引っ返して、燈火を取って来て更によく照らしてみると、それは一人の若い女であった。
 女は容貌《きりょう》がすぐれて美しい上に、その服装もここらには見馴れないほどに美麗なものであった。こんな女がどうしてここにいたのか、その子細をたずねようとしても、彼女は気息奄々《きそくえんえん》としてあたかも昏睡せる人の如くである。そこへ他の諸生らも集まって来て、これはおそらく本当の人間ではあるまい、鬼がこんな姿に変じて我々をあざむくのであろうなどと言いながら、しばらく遠巻きにして窺っていると、女はやがて眼をあいて、あたりを見まわして驚き怖れるような様子であった。
「おまえは人か鬼か。一体どこから来た」と、梁は訊いた。
「わたくしは楊《よう》州の或る家の娘でございます。きょう他へ輿入《こしい》れをする筈で、昼間から家を出ますと、その途中で俄かに大風が吹いて来まして、どこへか吹き飛ばされたように思っていますが、それから先は夢うつつでなんにも覚えて居りません」
 それを聞いて諸生らは喜んだ。梁にはまだ定まった妻がないので、神が楊州から彼に美人を送って来たのであろうと言った。梁もそうであろうかと思って、結局連れて帰って自分の妻としたが、あとで聞くと彼女は楊州でも人に知られた大家《たいけ》の娘であった。
 梁はそれから十数年の後、大いに立身して高官にのぼった。妻は数人の子女を儲けて夫婦むつまじく暮らした。[#地から1字上げ](同上)

   捕鶉《ほじゅん》の児

 平輿《へいよ》の南、凾頭村《かんとうそん》の張老《ちょうろう》というのは鶉《うずら》を捕るのを業としていたので、世間から鶉と呼ばれていた。
 張はすでに老いて、ただ一人の男の児を持っているだけであったが、その児が十四、五歳になった時に病死したので、張夫婦は老後の頼りを失った悲しみに泣き叫んで、わが子と共に死にたいと嘆いた。その翌日になっても死体を埋葬するに忍びないので、瓦を積んで邱《おか》を作って、地下一、二尺のところに納めて置いた。
「わたしの児はまた活きて来る」と、彼は言った。
 それを愚痴と笑う者もあれば、憫《あわ》れむ者もあった。死後三日目に、張夫婦は墓前に伏して、例のごとくに慟哭《どうこく》をつづけていると、たちまち墓のなかで呻《うな》るような声がきこえた
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