た。その夜の夢に一人の老人があらわれて、渡るべき舟がなければ私に付いて来いと言って、世祖を岸の辺まで案内して、ここから渡ることが出来ると指さして教えました。世祖はそこに何かの目標《めじるし》をつけて帰ったかと思うと夢が醒めました。そこで翌日、ゆうべの夢の場所へ行って、そこか此処《ここ》かと尋ねていると、一人の男が来て、ここから渡られますという。それでもまだ何だか不安心であるので、世祖はその男にむかって、それではお前がまず渡ってみろ、おれ達はそのあとに付いてゆこうと言いますと、男は直ぐに先に立って行きました。大軍は続いて行きますと、果たしてそのひと筋の水路は特別に浅いので、無事に渡り越すことが出来ました。軍《いくさ》が終った後、世祖はかの案内者に恩賞をあたえようとしますと、その男は答えて、わたくしは富貴を願いません。ただ、わが身の自在を得れば満足でありますと申し立てたので、答刺罕と書いて賜わったのでございます。云々《しかじか》」[#地から1字上げ](山居新話)
道士、潮を退く
宋《そう》の理宗《りそう》皇帝のとき、浙江《せっこう》の潮《うしお》があふれて杭《こう》州の都をおかし、水はひさしく退《ひ》かないので、朝野の人びとも不安を感じた。そこで朝命として天師を召され、潮をしりぞける祷《いの》りをおこなうことになった。時の天師は三十五代の観妙真人《かんみょうしんじん》である。天師が至ると、潮はたちまち退いたので、理宗帝は大いに喜び、多大の下され物があった。真人が法を修したのは四月十三日であった。
然るに、元《げん》の大徳二年の春、潮が塩官《えんかん》州をおかして、氾濫すること百余里、その損害は実におびただしく、潮は城市にせまって久しく退かないので、土地の有力者は前にいった宋代の例を引いて、江浙行省《こうせつこうしょう》に出願し、天師をむかえて潮を退けることになった。時の天師は三十八代の凝神広教真人《ぎょうしんこうきょうしんじん》である。
やがて使者が迎いに行ったが、真人はその聘礼《へいれい》の方法が正しくないというので動かず、遂に行くことを謝絶した。そこで宮中の道士をくだして、鉄符をもって加持させることになった。道士は塩官州に到着したが、その行李《こうり》がまだ混雑しているので、取りあえず持参の鉄符を水のほとりに立てると、俄かに浪は立ち騒いで、神の加護があるように見えたので、道士は喜んだ。
彼は法服に着かえ、鉄符をたずさえて舟に登った。大勢の人びとは岸にあつまって眺めていると、金の甲《よろい》を着た神者が彷彿《ほうふつ》として遠い空中に立っているのを見た。道士は法を修して、やがてその鉄符をなげうつと、鉄符は浪の上に躍ること幾回の後に沈んだ。暫くして一天俄かに晦《くら》く、霹靂《へきれき》一声、これで法を終った。
それから数日の後、別のところに沙《すな》の盛りあがること十数里、その上に一物《いちもつ》を発見した。それは海亀に似たもので、大きさは車輪のごとく、身には甲《こう》をつけて三つ足であった。これぞ世にいう「能《のう》」である。道士はその半分を剖《さ》いて、持ち帰って朝廷に献じた。
道士が塩官州へくだったのち、朝廷からさらに天師に命令があったので、天師も辞《いな》むことを得ずして起《た》った。天師が到着したのは四月十三日で、あたかも宋代の時と同日であるので、人びとも不思議に思った。但し道士の修法が成就して、潮はようやく退いた後であるので、攘《はら》いの祈祷をおこなった上に、堤を築き、宮を建てることにして帰った。[#地から1字上げ](隠居通議)
底本:「中国怪奇小説集」光文社
1994(平成6)年4月20日第1刷発行
※校正には、1999(平成11)年11月5日3刷を使用しました。
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2003年7月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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