着いた時に、駅の役人が注意した。
「きょうももう暮れました。江のほとりには馬絆《ばはん》が出ます。この先へはおいでにならないがよろしゅうございましょう」
 ※[#「馮/几」、第4水準2−3−20]はその注意を肯《き》かなかった。彼は良い馬を選んで、土地の者を供に連れて出発した。行くこと三、四十里、たちまちに供の者は馬から下りて地にひざまずき、しきりに何か念じているようであった。
 その言葉は訛《なま》っているので、何をいうのか能《よ》く判らないが、ひどく哀しんで憫れみを乞うように見受けられたので、※[#「馮/几」、第4水準2−3−20]はどうしたのかと訊ねると、彼は手をうごかして小声で説明した。われわれは死ぬというのである。
 そこで、※[#「馮/几」、第4水準2−3−20]も馬をくだって祷《いの》った。
「わたしは万里の遠方から来て、ここに仕官の身の上である。もし私に天禄があるならば、死ぬことはあるまい。天禄がなければ、あえて死を恐るるものではない」
 時に月のひかり薄明るく、小さい家のような巨大な物がころげるように河のなかにはいった。風なまぐさく、浪もまたなまぐさく、腥気《せいき》は人をおそうばかりであった。更に行くこと数里の後、※[#「馮/几」、第4水準2−3−20]は土地の者に訊いた。
「あれはなんだ」
「馬絆です」
「馬絆とはなんだ」
 土地の者は手をふって答えない。三更《さんこう》の後に次の駅にゆき着くと、駅の役人が迎いに出て来て、ひどく驚いたように言った。
「なんという大胆なことを……。夜中《やちゅう》に馬絆の虞《おそ》れあるところを越えておいでになるとは……」
「馬絆とはなんだ」と、※[#「馮/几」、第4水準2−3−20]はまた訊いた。
「馬黄精《ばおうせい》のことでございます。これに逢う者はみな啖《く》われてしまいます」
 馬絆といい、馬黄精といい、いずれも蛟《みずち》の種類であるらしい。[#地から1字上げ](遂昌雑録)

   廬山の蟒蛇

 廬山《ろざん》のみなみ、懸崖《けんがい》千尺の下は大江に臨んでいる。その崖の半途に藤蔓《ふじづる》のまとった古木があって、その上に四つの蜂の巣がある。その大きさは五|石《こく》を盛る瓶《かめ》の如くで、これに蔵する蜂蜜はさぞやと察せられたが、何分にも嶮峻《けんしゅん》の所にあるので、往来の者はむなしく睨んで行き過ぎるばかりであった。
 そのうちに二人の樵夫《きこり》が相談して、儲けは山分けという約束で、この蜂の巣を取ることになった。一人は腰に縄をつけて、大木にすがって下ること二、三十丈、ようように巣のある所まで行き着いて、さかんに蜜を取った。他の一人は上から縄をとって、あるいは引き上げ、あるいは引き下げていたが、やがて蜜も大方とり尽くしたと思うころに、上の一人は縄を切って去った。自分ひとりで利益を占めようと考えたのである。
 取り残された樵夫は声を限りに叫んだが、どうすることも出来なかった。巣に余っている蜜をすすってわずかに飢えを凌いでいながら、どこにか昇る路はないかと、石の裂け目を攀《よ》じてゆくと、そこに一つの穴があった。
 穴は深く暗く、その奥に蛟《みずち》か蟒蛇《うわばみ》のようなものがわだかまっていて、寄り付かれないほどになまぐさかった。やがて蟒蛇は鉦《かね》のような両眼をひらくと、その光りはさながら人をとろかすように輝いた。しかも彼は別に動こうともしなかった。樵夫は非常に恐れたが、どこへ逃げるという路もない。殊に穴のなかには暖かい気が満ちていて、寒さを凌ぐには都合がいいので、そこに出たり這入ったりして日を送った。
 ある日、雷鳴がきこえると、穴のなかの物は俄かにのたくり出した。雷鳴が再びきこえると、物は穴から抜け出して行こうとするのである。
「どうで死ぬのは同じことだ」
 樵夫は覚悟して、その鱗《うろこ》の上に攀《よ》じ登ると、物は空中をゆくこと一、二里で、彼を振り落した。しかも池に落ちたために彼は死ななかった。後に官に訴えて出たので、彼を捨てて行った者は杖殺の刑におこなわれた。[#地から1字上げ](湛園静語)

   答刺罕

 至順《しじゅん》年間に、わたしは友人と葬式を送った。その葬式の銘旗に「答刺罕《タラカン》夫人某氏」としるされてあるのが眼についた。答刺罕は蒙古語で、訳して自在王というのである。わたしはその家の人に訊いてみた。
「答刺罕と書いてあるのは、朝廷から封ぜられたのですか。それとも本人の字《あざな》ですか」
「夫人の先祖が上《かみ》から賜わったのです」と、家人が答えた。「世祖《せいそ》皇帝が江南をお手に入れる時、大軍を率いて黄河《こうが》までお出でになりましたが、渡るべき舟がありません。よんどころなく其処《そこ》に軍をとどめる事になりまし
前へ 次へ
全5ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング