らずに行ったが最後、疫病神《やくびょうがみ》がこっちへ乗り込んで来て、どんな目に逢うか判らなかったのです」
 積んで来た酒や肉を彼に馳走して、舟は早々に漕ぎ戻した。[#地から1字上げ](同上)

   亡妻

 宋の大観《たいかん》年中、都の医官の耿愚《こうぐ》がひとりの妾を買った。女は容貌《きりょう》も好く、人間もなかなか利口であるので、主人の耿にも眼をかけられて、無事に一年余を送った。
 ある日のこと、その女が門前に立っていると、一人の小児が通りかかって、阿母《おっか》さんと声をかけて取りすがると、女もその頭を撫でて可愛がってやった。小児は家へ帰って、その父に訴えた。
「阿母さんはこういう所にいるよ」
 しかしその母というのは一年前余に死んでいるので、父はわが子の報告をうたがった。しかしその話を聞くと、まんざら嘘でもないらしいので、ともかくも念のためにその埋葬地を調べると、盗賊のために発《あば》かれたと見えて、その死骸が紛失しているのを発見した。そこで、その児を案内者にして、耿の家の近所へ行って聞きあわせると、その女は亡き妻と同名であることが判《わか》った。
 もう疑うところはないと、父は行商に姿をかえ、その近所の往来を徘徊して、女の出入りを窺っているうちに、ある時あたかも彼女に出逢った。それはまさしく自分の妻であった。女も自分の夫を見識っていた。不思議の対面に、その場はたがいに泣いて別れたが、それが早くも主人の耳に入って、耿は女を詮議すると、彼女は明らかに答えた。
「あの人はわたくしの夫で、あの児はわたくしの子て[#「て」はママ]ございます」
「嘘をつけ」と、耿は怒った。「去年おまえを買ったときには、ちゃんと桂庵《けいあん》の手を経ているのだ。おまえに夫のないということは、証文面にも書いてあるではないか」
 女は密夫を作って、それを先夫と詐《いつわ》るのであろうと、耿は一途《いちず》に信じているので、彼女をその夫に引き渡すことを堅く拒《こば》んだ。こうなると、訴訟沙汰になるのほかはない。役人はまず女を取調べると、彼女はこう言うのである。
「わたくしも確かなことは覚えません。ただ、ぼんやりと歩きつづけて、一つの橋のあるところまで行きましたが、路に迷って方角が判らなくなってしまいました。そこへ桂庵のお婆さんが来て、わたくしを連れて行ってくれましたが、ただ遊んでいては食べることが出来ませんから、お婆さんと相談してここの家《うち》へ売られて来ることになったのでございます」
 さらに桂庵婆をよび出して取調べると、その申し立てもほぼ同じようなもので、広備橋《こうびきょう》のほとりに迷っている女をみて、自分の家へ連れて来たのであると言った。なにしろ死んだ女が生き返ってこういうことになったのであるから、役人もその裁判に困って、先夫から現在の主人に相当の値《あた》いを支払った上で、自分の妻を引き取るがよかろうと言い聞かせたが、耿の方が承知しない。いったん買い取った以上は、その女を他人に譲ることは出来ないというので、さらに御史台《ぎょしだい》に訴え出たが、ここでも容易に判決をくだしかねて、かれこれ暇取《ひまど》っているうちに、問題の女は又もや姿を消してしまった。
 相手が失せたので、この訴訟も自然に沙汰やみとなったが、女のゆくえは遂に判らなかった。それから一年を過ぎずして、主人の耿も死んだ。[#地から1字上げ](同上)

   盂蘭盆

 撫《ぶ》州の南門、黄柏路《こうはくろ》というところに※[#「澹−さんずい」、第3水準1−92−8]《たん》六、※[#「澹−さんずい」、第3水準1−92−8]七という兄弟があって、帛《きぬ》を売るのを渡世としていた。又その季《すえ》の弟があって、家内では彼を小哥《しょうか》と呼んでいたが、小哥は若い者の習い、賭博《とばく》にふけって家の銭《ぜに》を使い込んだので、兄たちにひどい目に逢わされるのを畏《おそ》れて、どこへか姿をくらました。
 彼はそれぎり音信不通であるので、母はしきりに案じていたが、占《うらな》い者《しゃ》などに見てもらっても、いつも凶と判断されるので、もうこの世にはいないものと諦めるよりほかはなかった。そのうちに七月が来て、盂蘭盆会《うらぼんえ》の前夜となったので、※[#「澹−さんずい」、第3水準1−92−8]の家では燈籠をかけて紙銭《しせん》を供えた。紙銭は紙をきって銭の形を作ったもので、亡者の冥福を祈るがために焚《や》いて祭るのである。
 日が暮れて、あたりが暗くなると、表で幽《かす》かに溜め息をするような声がきこえた。
「ああ、小哥はほんとうに死んだのだ」と、母は声をうるませた。盂蘭盆で、その幽霊が戻って来たのだ。
 母はそこにある一枚の紙銭を取りながら、闇にむかって言い聞かせた。
「も
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