突然病死した。
そのあとへ楊厚《ようこう》という人が赴任した。ある日、楊が役所に出ていると、数人の者が手枷《てかせ》や首枷をかけた一人の囚人《めしゅうど》をつれて来て、なにがし村の一件の御吟味をおねがい申すといって消え失せた。
白昼にこの不思議を見せられて、楊もおどろいた。殊《こと》に新任早々で、在来のことをなんにも知らないので、下役人を呼んで取調べると、それはかの村民らを杖殺した一件であることが判った。首枷の囚人は秦棣であるらしい。
楊は書き役の者に命じて、かの一件の記録を訂正させ、さらに紙銭《しせん》十万を焚《や》いて、かれらの冥福を祈った。
鉄塔神の霊異
蔚《うつ》州の城内に寺があって、その寺内に鉄塔神《てつとうじん》というのが祭られているが、その神霊|赫灼《かくしゃく》たるものとして土地の人びとにも甚だ尊崇されていた。契丹《きったん》のまさに亡びんとする時、或る者はその神体が城外へ走るのを見て、おどろき怪しんで早速に参詣すると、神像の全身に汗が流れていたので、いよいよそれを怪しんだが、さてその子細はわからなかった。
その夜の夢に、神は寺の講師《こうじ》に告げた。
「われは天符を受取って、それに因るとこの城中の者はみな死すべきである。それは余りにいたましいので、われは毎日奔走尽力して、出来得るだけの人命を救うことにした。明日の午《ひる》どきに女真《じょしん》の兵が突然に襲って来て、この城は落ちる。そうして、逃がるまじき命数の者一千三百余人だけは命を失わなければならない。そのうちにはこの寺の僧四十余人も数えられている。あなたもその一人であるが、われは久しくこの地にあって、ふだんから師の高徳に感じているのであるから、死者の名簿を改訂して他人の名に換えて置いた。就いては、明日早朝にここを立ち退くがよろしい」
講師は夢が醒めて奇異に感じた。それを他の僧らに話したが、誰も信じる者がないので、講師も一時はやや躊躇したが、鉄塔神の霊あることはかねて知っているので、とうとう思い切って自分だけの荷物を取りまとめて、寺のうしろの山へ逃げ登った。
行くこと五里ばかりにして、講師は白金の食器を置き忘れたことを思い出したので、ふたたび下山して寺へ引っ返すと、あたかも檀家で供養をたのみに来ている者があった。他の僧らは講師の顔をみて喜んだ。
「あなたのような偉いかたが軽々しく夢を信ずるということがありますか。こうして檀家の方々も見えているのに、和尚のあなたが、子細もなしに寺を捨てて立ち去ったなどとあっては、世間の信仰をうしなってしまいます。今は国ざかいも平穏で、女真《じょしん》のえびすなどが押し寄せて来るという警報もないのに、一刻を争って立ち退くには及びますまい」
かれらの言うことに道理もあるので、講師はこころならずもひき留められて、かれらと共に供養の式を営み、あわせて法談を試むることになった。法談が終って、衆僧がみな午飯《ひるめし》を食いはじめると、たちまちに女真の兵がにわかに押し寄せて来たという警報を受取った。もちろん不意のことであるから、城はいっ時の後に攻め破られた。
僧らもあわてて逃げ惑ったが、もう遅かった。城中の人と寺中の僧と、死んだ者の数はかの神の告げに符合していた。講師も身を全うすることが出来なかった。
乞食の茶
都の石氏《せきし》という家では茶肆《ちゃみせ》を開いて、幼い娘に店番をさせていた。
ある時、その店へ気ちがいのような乞食が来た。垢《あか》だらけの顔をして、身には襤褸《ぼろ》をまとっているのである。彼は茶を飲ませてくれと言うと、娘はこころよく茶をすすめた。しかもその貧しいのを憫れんで銭《ぜに》を取らなかった。その以来、かの乞食は毎日ここへ茶を飲みに来ると、娘は特に佳い茶をこしらえてやった。
それがひと月もつづいたので、父もそれを知って娘を叱った。
「あんな奴が毎日来ると、ほかの客の邪魔になる。今度来たら追い出してしまえ」
それでも娘はやはり今までの通りにしているので、父はいよいよ怒って彼女を打《ぶ》つこともあった。そのうちに、かの乞食が来て、いつものように茶を飲みながら娘に言った。
「お前はわたしの飲みかけの茶を飲むか」
これには娘もすこし困って、その茶碗の茶を土にこぼすと、たちまち一種不思議のよい匂いがしたので、彼女は怪しんでその残りを飲みほした。
「わたしは呂翁《りょおう》という者だ」と、乞食は言った。「おまえは縁がなくて、わたしの茶をみんな飲まなかったが、少し飲んでも福はある。富貴か、長寿か、おまえの望むところを言ってみろ」
娘は小商人《こあきんど》の子に生まれ、しかもまだ小娘であるので、富貴などということはよく知らなかった。そこで、彼女は長寿を望むと答えると、乞食はうなずいて立ち去った。親たちもそれを聞いて今更のように驚いたが、乞食はもう再び姿をみせなかった。
娘は生長して管営指揮使の妻となり、のちに呉《ご》の燕王《えんおう》の孫娘の乳母となって、百二十歳の寿を保った。
小龍
宗立本《そうりゅうほん》は登《とう》州|黄《こう》県の人で、父祖の代から行商を営《いとな》んでいたが、年の長《た》けるまで子がなかった。宋の紹興二十八年の夏、帛《きぬ》のたぐいを売りながら、妻と共に※[#「さんずい+維」、第3水準1−87−26]《い》州を廻って、これから昌楽《しょうらく》へ行こうとする途中、日が暮れて路ばたの古い廟に宿った。数人の従者は柝《き》を撃って、夜もすがらその荷物を守っていた。
夜があけて出発すると、六、七歳の男の児が来てその前にひざまずいた。見るから利口そうな小児である。宗は立ちどまって、お前はどこの子かとたずねると、彼ははきはきと答えた。
「わたくしは武昌《ぶしょう》の公吏の子で、父は王忠彦《おうちゅうげん》と申しました。運悪く両親に死に別れて、他人の手に育てられていましたが、ここへ来る途中で捨てられました」
宗は憐れんで彼を養うことにして、その名を神授《しんじゅ》と呼ばせた。神授は見た通りの賢い生まれつきで、書物を読めばすぐに記憶するばかりか、大きい筆を握ってよく大字をかいた。篆書《てんしょ》でも隷書《れいしょ》でも草書《そうしょ》でも、学ばずして見事に書くので、見る人みな驚嘆せざるはなかった。宗はもとより大資本の商人でもないので、しまいには自分の商売をやめて、神授を連れて諸方を遊歴し、その字を売り物にして生活するようになった。
それからのち二年の春、宗は小児を連れて済南《さいなん》の章丘《しょうきゅう》へゆくと、路で胡服《こふく》をきた一人の僧に逢った。僧は容貌魁偉《ようぼうかいい》ともいうべき人で、宗にむかって突然に訊いた。
「おまえはこの子をどこから拾って来た」
「これはわたしの実の子です」と、宗は答えた。「飛んでもないことをお言いなさるな」
「いや、おまえの子ではない筈だ」と、僧は笑いながら言った。「これは私の住んでいる五台山の龍《りゅう》だ。五百の小龍のうちで其の一つが行くえ不明になったので、三年前から探していたのだ。お前の手もとに長くとどめて置くと、きっと大いなる禍いを受けることになる。わたしが法を施したから、かれももうどうすることも出来まい」
僧は水を索《もと》めて噴きかけると、神授はたちまち小さい朱《あか》い蛇に変った。僧は瓶《かめ》をとって神授の名を呼ぶと、蛇は躍ってその瓶のうちにはいった。呆れている宗の夫婦をあとに見て、僧は笠を深くして立ち去った。
蛇薬
徽《き》州|懐金郷《かいきんごう》の程彬《ていひん》という農民は、一種の毒薬を作って暴利をむさぼっていた。
それはたくさんの蛇を殺して土中にうずめ、それに苫《とま》をかけて、常に水をそそいでいると、毒気が蒸れてそこに怪しい蕈《きのこ》が生える。それを乾かして、さらに他の薬をまぜ合わせるのである。しかし最初に生えた蕈は、その毒があまりに猛烈で、食えばすぐに死んでしまうので、後日《ごにち》の面倒を恐れて用いず、多くは二度目に生えたのを用いて、徐々に斃《たお》れさせるのであった。
その毒をためすには、蛙《かわず》に食わせてみるのである。蛙が多く躍り狂えば、その毒の効き目が多いということになっている。その薬の名は万歳丹《まんざいたん》と称していたが、万歳どころか、実は人の命をちぢめる大毒薬で、何かの復讐などを企てるものは、大金を与えてその秘薬を買った。現に或る家では来客にその薬をすすめようとして、誤まって嫁の舅《しゅうと》に食わせたので、驚いていろいろに介抱したが、どうしても救うことが出来なかったという話も伝わっている。
程《てい》の弟に正道《せいどう》という者があった。その名のごとく彼は正しい人間であったので、兄の非行を見るに見かねて、数十里の遠いところへ立ち退いてしまった。程もだんだん老ゆるにしたがって、自分の非を悔むようになったので、本当の薬を作ることをやめて、その偽物を売りはじめたが、偽物では効き目がないので、自然に買う者もなくなった。彼は貧窮のうちに晩年を送って、ひとり息子は乞食になった。
彼がほん物の万歳丹を作っている時のことである。村役人が租税《そぜい》を催促に行って、なにか彼の感情を害すようなことを言ったので、程はあざむいてかの薬を飲ませると、役人は帰る途中から俄かに頭が痛んで血を嘔《は》いた。さてはと気がついて引っ返して、程の門前に仆《たお》れて救いを呼ぶと、彼は水を汲んで来て飲ませてくれた。それで苦痛も薄らいで、役人は無事に助かったということであるから、彼は毒を作ると共に、その毒を消す法をも知っていたらしいが、その法は伝わっていない。
重要書類紛失
宋の紹興の初年、甫田《ほでん》の林迪功《りんちゅうこう》という人は江西の尉《じょう》を勤めていたが、盗賊を捉えた功によって、満期の後は更に都の官吏にのぼせられることになっていた。
そのころ臨安府には火災が多かったので、官舎に寄寓《きぐう》している人びとは、外出するごとに勅諭《ちょくゆ》その他の重要書類を携帯してゆくのを例としていた。林《りん》も御用大事と心得ている人物であるので、外出する時には必ず重要書類を懐中して出て、途中でも二、三度ぐらいは検《あらた》めることにしていた。
それで最初は無事であったが、ある時それが紛失したので、彼は三万銭の賞を賭けてその捜査を命じると、たちまちにそれを届けて来るものがあった。それで安心すると、又もや紛失した。又もや賞をかけると、又もや直ぐに届けて来た。こういうことが三度も四度も繰り返されたので、本人も怪しみ、他の者も不審をいだくようになった。これが果てしもなしに続くときは、彼の私財が尽きてしまうか、あるいは重要書類をうしなった罪に服するか、二つに一つは免《まぬ》かれないであろうと危ぶまれた。
林は独身者であるが、近来その部屋のなかで頻《しき》りに人声を聞くことがあった。殊に或る夜は何か声高《こわだか》に論じ合っているようであったが、暫くしてひっそりと鎮まった。あくる朝になっても戸もあけないので、出入りの婆さんが不思議に思って、近所の人びとを呼びあつめ、壁をぶちこわしてはいってみると、林は腰掛けの上にたおれていた。かれは剪刀《はさみ》で喉を突いて自殺したのである。
さてその死因はわからなかった。伝うるところに拠れば、彼がさきに盗賊二人を捕えた時、いずれもその証拠不十分であるにも拘《かかわ》らず、彼は自己の功をなすに急なる余りに、鍛錬|羅織《らしき》して無理にかれらを罪人におとしいれた。その恨みが重要書類の紛失となり、さらに彼の死となったのであろうというのである。但しそれが死んだ人の仕業《しわざ》か、生きている人の仕業か、本人に聞いてみなければ判らないのである。
股を焼く
宋の宣和《せんな》年中に、明州|昌国《しょうこく》の人が海あきないに出た。海上何百里、名の知れない大きい島に舟を寄せて、そのうちの数人が薪《たきぎ
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