中国怪奇小説集
夷堅志
岡本綺堂
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)宋《そう》で
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)数十|荷《か》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)洪※[#「しんにゅう+舌」、第4水準2−89−87]《こうかつ》
−−
第八の男は語る。
「わたくしは宋《そう》で『夷堅志』をえらみました。これは有名の大物でありますから、とても全部のお話は出来ません。そのなかで自分が面白く読んだものの幾分を御紹介するにとどめて置きます。この作者は宋の洪邁《こうまい》であります。この家は、父の洪皓《こうこう》をはじめとして、せがれの洪※[#「しんにゅう+舌」、第4水準2−89−87]《こうかつ》、洪遵《こうしゅん》、洪邁の一家兄弟、揃いも揃って名臣であり、忠臣であり、学者であること、実に一種の異彩を放っていると申してもよろしいくらいでありまして、宋朝が金《きん》に圧迫せられて南渡の悲運におちいるという国家多難の際にあって、皆それぞれに忠奮の意気をあらわしているのは、まったく尊敬に値いするのであります。
しかしここでは『夷堅志』の作者たる洪邁一人について少々申し上げますと、彼は字《あざな》を景盧《けいろ》といい、もちろん幼にして学を好み、紹興《しょうこう》の中年に詞科に挙げられて、左司員外郎《さしいんがいろう》に累進《るいしん》しました。彼が金に使いした時に、敵国に対するの礼を用いたので、大いに金人のために苦しめられましたが、彼は死を決して遂に屈しなかった事などは、有名の事実でありますから詳しく申すまでもありますまい。
後にゆるされて帰りまして、所々の知州などを勤めた末に、端明殿学士《たんめいでんがくし》となって退隠しました。死して文敏《ぶんびん》と諡《おくりな》されて居ります。その著書や随筆は頗《すこぶ》る多いのですが、一般的に最もよく知られているのは、この『夷堅志』であります。原本は四百二十巻の大作だそうですが、その大部分は散佚《さんいつ》して、今伝わるものは五十巻、それでもなかなかの大著述というべきでしょう。
そうして、その敵国たる金の元遺山《げんいざん》が更に『続夷堅志』を書いているのは、頗るおもしろい対照というべきであります。どちらも学者で忠臣でありますから、元遺山もひそかに彼を敬慕していたのかも知れません。あまりに前置きが長くなりましては御退屈でございましょうから、ここらで本文《ほんもん》に取りかかります」
妖鬼を祭る
祁《き》州の汪《おう》氏の息子が番陽《はよう》から池《ち》州へ行って、建徳《けんとく》県に宿ろうとした。その途中、親しい友をたずねて酒の馳走になっているうちに、行李《こうり》はすでに先発したので、汪はひとりで馬に乗って出ると、路を迷ったものとみえて、行けども行けども先発の従者に逢わないので、草深い森の奥へ踏み込んでしまった。
そのうちに日が暮れかかると、草むらから幾人の男があらわれて、有無《うむ》をいわさずに彼を捕虜《とりこ》にして牽《ひ》き去った。行くこと何百里、深山の古い廟のなかへ連れ込まれて、汪はその柱へうしろ手に縛り付けられた。何を祭ってあるのか知らないが、かれらは香を焚《た》き、酒を酌んで、神像の前にうやうやしく礼拝して言った。
「どうぞ御自由にねがいます」
かれらは廟門をとざして立ち去った。かれらは人を供えて妖鬼を祭るのである。汪は初めてそれをさとったが、今更どうすることも出来ないので、日ごろ習いおぼえた大悲の呪《じゅ》を唱えて、ただ一心にその救いを祈っていると、その夜半に大風雨がおこって、森の立ち木も震動した。
廟門は忽ちにおのずから開かれて、何物かがはいって来た。その眼のひかりは松明《たいまつ》のようで、あたりも輝くばかりに見えるので、汪は恐るおそる窺うと、それは大きい蟒蛇《うわばみ》であった。蛇は首をもたげて生贄《いけにえ》に進み寄って来るので、汪は眼をとじて、いよいよ一心に念誦《ねんじゅ》していると、蛇は一丈ほどの前まで進んで来ながら、何物にかさえぎられるように逡巡《しりご》みした。一進一退、おなじようなことを三度も繰り返した後に、蛇は遂に首を伏せて立ち去ってしまった。
汪もこれでひと息ついて、ひたすらに夜の明けるのを待っていると、表がようやく白《しら》んで来た時、太鼓をたたき、笙《しょう》を吹いて、大勢の人がここへ近づいた。そのなかには昨夜の男もまじっていた。
かれらは汪が無事でいるのを見て大いにおどろいた。汪からその子細を聞かされて、かれらは更に驚嘆した。
「あなたは福のあるお人で、われわれの神にささげることは出来ないのです」
かれらは汪のいましめを解いて、昨夜来の無礼をあつく詫びた上に、官道までつつがなく送り出して、この事はかならず他言して下さるなと、堅く頼んで別れた。
床下の女
宋《そう》の紹興《しょうこう》三十二年、劉子昂《りゅうしこう》は和州《わしゅう》の太守に任ぜられた。やがて淮上《わいしょう》の乱も鎮定したので、独身で任地にむかい、官舎に生活しているうちに、そこに出入りする美婦人と親しくなって、女は毎夜忍んで来た。
それが五、六カ月もつづいた後、劉は天慶観《てんけいかん》へ参詣すると、そこにいる老道士が彼に訊《き》いた。
「あなたの顔はひどく痩せ衰えて、一種の妖気を帯びている。何か心あたりがありますか」
劉も最初は隠していたが、再三問われて遂に白状した。
「実は妾《しょう》を置いています」
「それで判りました」と、道士はうなずいた。「その婦人はまことの人ではありません。このままにして置くと、あなたは助からない。二枚の神符《しんぷ》をあげるから、夜になったら戸外に貼りつけて置きなさい」
劉もおどろいて二枚の御符を貰って帰って、早速それを戸の外に貼って置くと、その夜半に女が来て、それを見て怨み罵った。
「今まで夫婦のように暮らしていながら、これは何のことです。わたしに来るなと言うならば、もう参りません。決して再びわたしのことを憶《おも》ってくださるな」
言い捨てて立ち去ろうとするらしいので、劉はまた俄かに未練が出て、急にその符を引っぱがして、いつもの通りに女を呼び入れた。
それから数日の後、かの道士は役所へたずねて来た。かれは劉をひと目見て眉をひそめた。
「あなたはいよいよ危うい。実に困ったものです。しかし、ともかくも一応はその正体をごらんに入れなければならない」
道士は人をあつめて数十|荷《か》の水を運ばせ、それを堂上にぶちまけさせると、一方の隅の五、六尺ばかりの所は、水が流れてゆくと直ぐに乾いてしまうのである。そこの床下を掘らせると、女の死骸があらわれた。よく見ると、それはかの女をそのままであるので、劉は大いに驚かされた。彼はそれから十日を過ぎずして死んだ。
餅を買う女
宣城《せんじょう》は兵乱の後、人民は四方へ離散して、郊外の所々に蕭条《しょうじょう》たる草原が多かった。
その当時のことである。民家の妻が妊娠中に死亡したので、その亡骸《なきがら》を村内の古廟のうしろに葬った。その後、廟に近い民家の者が草むらのあいだに灯《ひ》の影を見る夜があった。あるときは何処《どこ》かで赤児《あかご》の啼く声を聞くこともあった。
街《まち》に近い餅屋へ毎日餅を買いに来る女があって、彼女は赤児をかかえていた。それが毎日かならず来るので、餅屋の者もすこしく疑って、あるときそっとその跡をつけて行くと、女の姿は廟のあたりで消え失せた。いよいよ不審に思って、その次の日に来た時、なにげなく世間話などをしているうちに、隙《すき》をみて彼女の裾に紅い糸を縫いつけて置いて、帰る時に再びそのあとを付けてゆくと、女は追って来る者のあるのを覚ったらしく、いつの間にか姿を消して、糸は草むらの塚の上にかかっていた。
近所で聞きあわせて、塚のぬしの夫へ知らせてやると、夫をはじめ、一家の者が駈け付けて、試みに塚をほり返すと、赤児は棺のなかに生きていた。女の顔色もなお生けるが如くで、妊娠中の胎児が死後に生み出されたものと判った。
夫の家では妻の亡骸《なきがら》を灰にして、その赤児を養育した。
海中の紅旗
丞相《じょうしょう》(大臣)の趙鼎《ちょうてい》が遠く流されて朱崖《しゅがい》にあるとき、桂林《けいりん》の帥《そつ》が使いをつかわして酒や米を贈らせた。雷《らい》州から船路をゆくこと三日、風力がすこぶる強いので、帆を十分に張って走らせると、洪濤《おおなみ》のあいだに紅い旗のようなものが続いてみえた。
距離が遠いのでよく判《わか》らないが、あるいは海賊か、あるいは異国の兵かと、舟びとを呼んでたずねると、かれらは手をふって、なんにも言うなと制した。見れば、その顔色が甚だおだやかでない。
どうした事かと疑い惑《まど》っていると、舟びとの一人はやがて髪をふり乱して刀を持って、篷《とま》のうしろに出たかと思うと、自分の舌を傷つけてその血を海のなかへしたたらした。
「口を利いてはいけません。眼を瞑《と》じておいでなさい」と、舟びとは注意した。
その通りにしていると、ふた時《とき》ほども過ぎた後に、舟びとらはたちまち喜びの声をあげた。
「御安心なさい。みんな助かりました」
なにが何だかちっとも判らないので、使いは舟びとにその子細《しさい》をただすと、かれらは初めて説明した。
「けさから見たのは鰌魚《ゆうぎょ》の大きいので、紅い旗のように見えたのは、その鱗《うろこ》や脊鰭《せびれ》でございます。あの魚とこの舟とは十五里も距《はな》れているのですが、もしあの魚がからだを一度ゆすぶったら、こんな舟は木の葉のようにくつがえされてしまいます。あの魚は北へのぼり、この舟は南へくだり、たがいに行き違いになりながら、この強い風に幾時間を費したのですから、おそらくかの魚の長さは幾百里というのでございましょう。考えても怖ろしいことでございます」
荘子《そうじ》のいわゆる鯤鵬《こんぼう》の説も、必ずしも寓言《ぐうげん》ではないと、使いはさとった。
※[#「がんだれ+萬」、第3水準1−14−84]鬼《れいき》の訴訟
秦棣《しんてい》が宣州の知事となっている時である。某村の民家で酒を密造しているのを知って、巡検をつかわして召捕らせた。
巡検は数十人の兵を率いて、夜半にその家を取り囲むと、それは村内に知られた富豪であるので、夜なかに多勢《たぜい》が押し寄せて来たのを見て、賊徒の夜襲と早合点して、太鼓を鳴らして村内の者どもを呼びあつめた。その家にも大勢《おおぜい》の奉公人があるので、かれこれ一緒に協力して、巡検その他をことごとく捕縛してしまった。おれは役人であるといっても、激昂しているかれらは承知しないのである。
それが県署にもきこえたので、県の尉《じょう》が早馬で駈け付けると右の始末である。何分にも夜中といい相手は多勢であるので、尉はまずいい加減にかれらをなだめた。
「よし、よし。お前の家で強盗どもを捕えたのは結構なことだ。ともかくもわたしの方へ引き渡してくれないか。おまえ達にも褒美をやるよ」
だまされるとは知らないで、かれらは縄付きの巡検らをひき渡した。その家の主人と忰《せがれ》と孫との三人も、その事情を訴えるために付いて行った。さて行き着くと相手の態度は俄かに変って、知事の秦棣《しんてい》は巡検らの縄を解いて、あべこべにかの親子ら三人を引っくくった。
「役人を縛って、強盗呼ばわりをするとは不届きな奴らだ」
かれらはからだ全体を麻縄で厳重にくくり上げられて、いずれも一百ずつ打たれた。縄を解くと、三人はみな息が絶えていた。それはあまりに苛酷の仕置きであるという批難もあったが、秦棣の兄は宰相《さいしょう》であるので、誰も表向きに咎める者はなかった。但し秦棣はその明くる年に
次へ
全4ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング