中国怪奇小説集
白猿伝・其他
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)拾遺《しゅうい》といった
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(例)平南将軍|藺欽《りんきん》
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(例)欧陽※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]《おうようこつ》
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第五の男は語る。
「唯今は『酉陽雑爼』と『宣室志』のお話がありました。そこで、わたくしには其の拾遺《しゅうい》といったような意味で、唐代の怪談総まくりのようなものを話せという御注文ですが、これはなかなか大変でございます。とても短い時間に出来ることではありません。勿論、著名の物を少々ばかり紹介いたすに過ぎないと御承知ください。就きましては、まず『白猿伝』を申し上げます。この作者の名は伝わって居りません。唐に欧陽詢《おうようじゅん》という大学者がありまして、後に渤海男《ぼっかいだん》に封《ほう》ぜられましたが、この人の顔が猿に似ているというので、或る人がいたずらにこんな伝奇を創作したのであって、本当に有った事ではないという説があります。しかし〈志怪の書〉について、その事実の有無を論議するのは、無用の弁に近いかとも思われます。ともかくも古来有名な物になって居りまして、かの頼光《らいこう》の大江山《おおえやま》入りなども恐らくこれが粉本《ふんぼん》であろうと思われますから、事実の有無《うむ》を問わず、ここに紹介することに致します。
そのほかには、原化記《げんかき》、朝野僉載《ちょうやせんさい》、博異記《はくいき》、伝奇、広異記《こういき》、幻異志《げんいし》などから、面白そうな話を選んで申し上げたいと存じます。これらもみな有名の著作でありまして、一つ一つ独立して紹介するの価値があるのでございますが、あとがつかえて居りますから、そのなかで特色のあるお話を幾つか拾い出すにとどめて置きます。右あらかじめお含み置きください」
白猿伝
梁《りょう》(六朝《りくちょう》)の大同《だいどう》の末年、平南将軍|藺欽《りんきん》をつかわして南方を征討せしめた。その軍は桂林《けいりん》に至って、李師古《りしこ》と陳徹《ちんてつ》を撃破した。別将の欧陽※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]《おうようこつ》は各地を攻略して長楽《ちょうらく》に至り、ことごとく諸洞の敵をたいらげて、深く険阻《けんそ》の地に入り込んだ。
欧陽※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]の妻は白面細腰《はくめんさいよう》、世に優れたる美人であったので、部下の者は彼に注意した。
「将軍はなぜ麗人を同道して、こんな蕃地へ踏み込んでお出《い》でになったのです。ここらの山の神は若い女をぬすむといいます。殊に美しい人はあぶのうございますから、よく気をお付けにならなければいけません」
※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]はそれを聞いて甚だ不安になった。夜は兵をあつめて宿舎の周囲を守らせ、妻を室内に深く閉じ籠めて、下婢《かひ》十余人を付き添わせて置くと、その夜は暗い風が吹いた。五更《ごこう》(午前三時―五時)に至るまで寂然《せきぜん》として物音もきこえないので、守る者も油断して仮寝《うたたね》をしていると、たちまち何物かはいって来たらしいので驚いて眼をさますと、将軍の妻はすでに行くえ不明であった。扉《とびら》はすべて閉じたままで、どこから出入りしたか判らない。門の外は嶮《けわ》しい峰つづきで、眼さきも見えない闇夜にはどこへ追ってゆくすべもない。夜が明けても、そこらになんの手がかりも見いだされなかった。
※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]の痛憤はいうまでもない。彼はこのままむなしく還《かえ》らないと決心して、病いと称してここに軍を駐《とど》め、毎日四方を駈けめぐって険阻の奥まで探り明かした。こうしてひと月あまりを経たるのち、百里(六丁一里)ほどを隔てた竹藪で妻の繍履《ぬいぐつ》の片足を見付け出した。雨に湿《ぬ》れ朽ちてはいたが、確かにそれと認められたので、※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]はいよいよ悲しみ怒って、そのゆくえ捜索の決心をますます固めた。
彼は三十人の壮士をすぐって、武器をたずさえ、糧食を背負い、巌窟《がんくつ》に寝《い》ね、野原で食事をして、十日あまりも進むうちに、宿舎を去ること二百里、南のかたに一つの山を認めた。山は青く秀《ひい》でて、その下には深い渓《たに》をめぐらしていた。一行は木を編んで、嶮しい巌や翠《あお》い竹のあいだを渡り越えると、時に紅い衣《きもの》が見えたり、笑い声がきこえたりした。
蔦《つた》かずらを攀《よ》じて登り着くと、そこには良い樹を植えならべて、そのあいだには名花も咲いている。緑の草がやわらかに伸びて、さながら毛氈《もうせん》を敷いたようにも見える。あたりは清く静けく、一種の別天地である。
路を東にとって石門にむかうと、婦女数十人、いずれも鮮麗の衣服を着て歌いたわむれていたが、※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]の一行を見てみな躊躇するようにたたずんでいた。やがて近づくと、かれらは一行にむかって、なにしに来たかと訊《き》いた。※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]は事情をつまびらかに打ち明けると、女たちは顔をみあわせて嘆息した。
「あなたの奥さんはひと月ほど前からここに来ておいでですが、今は病気で寝ておられます。来てごらんなさい」
門をはいると、木の扉がある。内は寛《ひろ》くて、座敷のようなものが三、四室ある。壁に沿うて床《とこ》を設け、その床は綿に包まれている。※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]の妻は石の榻《とう》の上に寝ていたが、畳をかさね、茵《しとね》をかさねて、結構な食物がたくさんに列べてあった。たがいに眼を見合わせると、妻は急に手を振って、夫に早く立ち去れという意を示した。
女たちは言った。
「奥さんはこの頃お出でですが、わたし達の中にはもう十年もここにいる者があります。ここは神霊ある物の棲む所で、自由に人を殺す力を持っています。百人の精兵でも、かれを取り押えることは出来ません。幸いに今は留守ですから、還らない間に早く立ち去るが好うございます。しかし美《い》い酒二石と、食用の犬十匹と、麻数十|斤《きん》とを持ってお出でになれば、みんなが一致して彼を殺すことが出来ます。来るならば必ず正午ごろに来てください。それも直ぐに来てはなりません。十日を過ぎてお出でなさい」
それでは十日の後に再び来ると約束して、※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]の一行は立ち帰った。それから美酒と犬と麻とを用意して、約束の時刻にたずねて行くと、女たちは待っていた。
「かれは酒が大好きで、酔うと力が満ちて来ると見えて、私たちに言いつけて綵糸《いろいと》で自分のからだを牀《ゆか》に縛り付けさせます。そうして、一つ跳《は》ねあがると、糸は切れてしまうのです。しかし三本の糸をまき付けると、力が不足で切ることが出来ません。それですから、帛《きぬ》のなかに麻を隠して置いて縛ったらば、おそらく切ることは出来まいと思われます。彼のからだはすべて鉄のようで刃物などは透りませんが、ただ臍《へそ》のした五、六寸のところを大事そうに隠していますから、そこがきっと急所で、刃物を防ぐことが出来ないのであろうと察せられます」
女たちは更にかたわらの巌室《いわむろ》を指さして教えた。
「そこは食物|庫《ぐら》ですから暫く忍んでおいでなさい。酒を花の下に置き、犬を林のなかに放して置いて、わたし達の計略が成就《じょうじゅ》した時に、あなた方に合図をします」
その通りにして、一行は息を忍ばせて待っていると、日も早や申《さる》の刻(午後三時―五時)とおぼしき頃に、練絹《ねりぎぬ》のような物があなたの山から飛ぶが如くに走って来て、たちまちに洞《ほら》のなかにはいった。見れば、身のたけ六尺余の男で、美しい髯《ひげ》をたくわえ、白衣を着て杖を曳いていた。かれは女たち大勢に取り巻かれて庭に出たが、たちまちに犬を見つけて驚き喜び、身を跳らせて引っ捕えたかと思うと、引き裂いて片端から啖《くら》い尽くした。女たちは玉の杯で酒をすすめると、機嫌よく笑い興じながらかれは数|斗《と》の酒を飲んだ。
女たちはかれを扶《たす》けて奥にはいったが、そこでも又笑い楽しむ声がきこえた。やや暫くして、女が出て来て※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]の一行を招いたので、すぐに武器をたずさえて踏み込むと、一頭の大きい白猿が四足《しそく》を牀《ゆか》にくくられていて、一行を見るや慌て騒いで、しきりに身をもがいても動くことが出来ず、いたずらに電光のような眼を輝かすばかりであった。一行は先を争って刃を突き立てたが、あたかも鉄石の如くである。しかも臍の下を刺すと、刃《やいば》は深く突き透って、そそぐが如くに血が流れた。
「ああ、天がおれを殺すのだ」と、かれは大きい溜め息をついた。「貴様たちの働きではない。しかし貴様の女房はもう孕《はら》んでいる。必ずその子を殺すな。明天子に逢って家を興すに相違ないぞ」
言い終って彼は死んだ。その庫《くら》をさがすと、宝物珍品が山のように積まれていて、およそ人世の珍とする物は備わらざるなしという有様であった。名香《めいこう》数|斛《こく》、宝剣一|雙《そう》、婦女三十人、その婦女はみな絶世の美女で、久しいものは十年もとどまっている。容色おとろえた者はどこへか連れて行かれて、どうなってしまうか判らない。女を取り、物を取るのはすべて自分ひとりで、他に党類はない。朝はたらいで顔を洗い、帽をかぶり、白衣を着るが、寒さ暑さに頓着せず、全身は長さ幾寸の白い毛に蔽《おお》われている。
かれが家にある時は、常に木彫りの書物を読んでいるが、その文字は符篆《ふてん》の如くで、誰にも読むことは出来ない。晴れた日には両手に剣を舞わすが、その光りは身をめぐって飛び、あたかも円月の如くである。飲み食いは時を定めず、好んで木実《このみ》や栗を食うが、もっとも犬をたしなみ、啖い殺して血を吸うのである。午《ひる》を過ぎると飄然として去り、半日に数千里を往復して夕刻には必ず帰って来る。夜は婦女にたわむれて暁に至り、かつて眠ったことがない。要するに※[#「けものへん+暇のつくり」、第4水準2−80−45]※[#「けものへん+矍」、133−13]《かかく》のたぐいである。
ことしの秋、木の葉が落ち始める頃に、かれはさびしそうに言った。
「おれは山の神に訴えられて、死罪になりそうだ。しかし救いをもろもろの霊ある物に求めたから、どうにか免《まぬ》かれるだろう」
前月、書物を収めてある石橋が火を発して、その木簡《もっかん》を焼いてしまった。かれは書物を石の下に置いたのである。かれは悵然《ちょうぜん》としてまた言った。
「おれは千歳《せんざい》にして子がなかったが、今や初めて子を儲けた。おれの死期もいよいよ至った」
かれはまた、女たちを見まわして、涙を催しながら言った。
「この山は険阻で、かつて人の踏み込んだことのない所だ。上は高くして樵夫《きこり》なども見えず、下は深うして虎狼《ころう》怪獣が多い。ここへもし来る者があれば、それは天の導きというものだ」
怪物の話はこれで終った。※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]はその宝玉や珍品や婦女らを連れて帰ったが、婦女のうちには我が家を知っていて、無事に戻る者もあった。※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]の妻は一年の後に男の子を生んだが、その容貌は父に肖《に》ていた。
※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]は後に陳《ちん》の武帝《ぶてい》のために誅せられたが、彼は平素から江総《こうそう》と仲がよかった。江総は※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]の子の聡明なるを愛して、常に自分
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