えた者はどこへか連れて行かれて、どうなってしまうか判らない。女を取り、物を取るのはすべて自分ひとりで、他に党類はない。朝はたらいで顔を洗い、帽をかぶり、白衣を着るが、寒さ暑さに頓着せず、全身は長さ幾寸の白い毛に蔽《おお》われている。
かれが家にある時は、常に木彫りの書物を読んでいるが、その文字は符篆《ふてん》の如くで、誰にも読むことは出来ない。晴れた日には両手に剣を舞わすが、その光りは身をめぐって飛び、あたかも円月の如くである。飲み食いは時を定めず、好んで木実《このみ》や栗を食うが、もっとも犬をたしなみ、啖い殺して血を吸うのである。午《ひる》を過ぎると飄然として去り、半日に数千里を往復して夕刻には必ず帰って来る。夜は婦女にたわむれて暁に至り、かつて眠ったことがない。要するに※[#「けものへん+暇のつくり」、第4水準2−80−45]※[#「けものへん+矍」、133−13]《かかく》のたぐいである。
ことしの秋、木の葉が落ち始める頃に、かれはさびしそうに言った。
「おれは山の神に訴えられて、死罪になりそうだ。しかし救いをもろもろの霊ある物に求めたから、どうにか免《まぬ》かれるだろう」
前月、書物を収めてある石橋が火を発して、その木簡《もっかん》を焼いてしまった。かれは書物を石の下に置いたのである。かれは悵然《ちょうぜん》としてまた言った。
「おれは千歳《せんざい》にして子がなかったが、今や初めて子を儲けた。おれの死期もいよいよ至った」
かれはまた、女たちを見まわして、涙を催しながら言った。
「この山は険阻で、かつて人の踏み込んだことのない所だ。上は高くして樵夫《きこり》なども見えず、下は深うして虎狼《ころう》怪獣が多い。ここへもし来る者があれば、それは天の導きというものだ」
怪物の話はこれで終った。※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]はその宝玉や珍品や婦女らを連れて帰ったが、婦女のうちには我が家を知っていて、無事に戻る者もあった。※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]の妻は一年の後に男の子を生んだが、その容貌は父に肖《に》ていた。
※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]は後に陳《ちん》の武帝《ぶてい》のために誅せられたが、彼は平素から江総《こうそう》と仲がよかった。江総は※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]の子の聡明なるを愛して、常に自分の家に留めて置いたので、※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]のほろびる時にもその子は難をまぬかれた。生長の後、その子は果たして文学に達し、書を善くし、名声を一代に知られた。[#地から1字上げ](白猿伝)
女侠
唐の貞元年中、博陵《はくりょう》の崔慎思《さいしんし》が進士《しんし》に挙げられて上京したが、京に然るべき第宅《ていたく》がないので、他人の別室を借りていた。家主は別の母屋《おもや》に住んでいたが、男らしい者は一人も見えず、三十ぐらいの容貌《きりょう》のよい女と唯ふたりの女中がいるばかりであった。崔は自分の意を通じて、その女を妻にしたいと申し入れると、彼女は答えた。
「わたくしは人に仕えることの出来る者ではありません。あなたとは不釣合いです。なまじいに結婚して後日《ごじつ》の恨みを残すような事があってはなりません」
それでは妾《めかけ》になってくれと言うと、女は承知した。しかも彼女は自分の姓を名乗らなかった。そうして二年あまりも一緒に暮らすうちに、ひとりの子を儲けた。それから数月の後、ある夜のことである。崔は戸を閉じ、帷《とばり》を垂れて寝《しん》に就くと、夜なかに女の姿が見えなくなった。
崔はおどろいて、さては他に姦夫《かんぷ》があるのかと、憤怒《いきどおり》に堪えぬままに起き出でて室外をさまよっている時、おぼろの月のひかりに照らされて、彼女は屋上から飛び降りて来た。白の練絹を身にまとって、右の手には、匕首《あいくち》、左の手には一人の首をたずさえているのである。
「わたくしの父は罪なくして郡守に殺されました。その仇を報ずるために、城中に入り込んで数年を送りましたが、今や本意を遂げました。ここに長居は出来ません。もうお暇《いとま》をいたします」
彼女は身支度して、かの首をふくろに収め、それを小脇にかかえて言った。
「わたくしは二年間あなたのお世話になりまして、幸いに一人の子を儲けました。この住居も二人の奉公人もすべてあなたに差し上げますから、どうぞ子供の養育を願います」
男に別れて墻《かき》を越え、家を越えて立ち去ったので、崔も暫くはただ驚嘆するのみであった。やがて女はまた引っ返して来た。
「子供に乳をやって行くのを忘れましたから、ちょっと飲ませて来ます」
彼女は室内にはいったが、やや暫くして出て来た。
「乳をたんと飲ませました」
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