いう人があって、西河《せいか》郡の南に寓居していたが、家に一頭の馬を飼っていた。馬は甚だ強い駿足《しゅんそく》であった。
 ある朝早く起きてみると、その馬は汗をながして、息を切って、よほどの遠路をかけ歩いて来たらしく思われるので、厩《うまや》の者は怪しんで主人に訴えると、韓は怒った。
「そんないい加減のことを言って、実は貴様がどこかを乗り廻したに相違あるまい。主人の大切の馬を疲らせてどうするのだ」
 韓はその罰として厩の者を打った。いずれにしても、厩を守る者の責任であるので、彼はおとなしくその折檻《せっかん》を受けたが、明くる朝もその馬は同じように汗をながして喘《あえ》いでいるので、彼はますます不思議に思って、その夜は隠れてうかがっていると、夜がふけてから一匹の犬が忍んで来た。それは韓の家に飼っている黒犬であった。犬は厩にはいって、ひと声叫んで跳《おど》りあがるかと思うと、忽ちに一人の男に変った。衣服も冠もみな黒いのである。かれは馬にまたがって傲然《ごうぜん》と出て行ったが、門は閉じてある、垣は甚だ高い。かれは馬にひと鞭《むち》くれると、駿馬《しゅんめ》は跳《おど》って垣を飛び越えた。
 こうしてどこへか出て行って、かれは暁け方になって戻って来た。厩にはいって、かれはふたたび叫んで跳りあがると、男の姿はまた元の犬にかえった。厩の者はいよいよ驚いたが、すぐには人には洩らさないで猶《なお》も様子をうかがっていると、その後のある夜にも黒犬は馬に乗って出て、やはり暁け方になって戻って来たので、厩の者はひそかに馬の足跡をたずねて行くと、あたかも雨あがりの泥がやわらかいので、その足跡ははっきりと判った。韓の家から十里ほどの南に古い墓があって、馬の跡はそこに止まっているので、彼はそこに茅《かや》の小家を急造して、そのなかに忍んでいることにした。
 夜なかになると、黒衣の人が果たして馬に乗って来た。かれは馬をそこらの立ち木につないで、墓のなかにはいって行ったが、内には五、六人の相手が待ち受けているらしく、なにか面白そうに笑っている話し声が洩れた。そのうちに夜も明けかかると、黒い人は五、六人に送られて出て来た。褐色の衣服を着ている男がかれに訊いた。
「韓の家《いえ》の名簿はどこにあるのだ」
「家《うち》の砧石《きぬたいし》の下にしまってあるから、大丈夫だ」と、黒い人は答えた。
「いい
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