ばらく啜《すす》り泣きをしていたが、やがて涙を呑んで答えた。
「因果《いんが》応報という仏氏の教えを今という今、あきらかに覚りました。わたくしの若いときは放蕩無頼《ほうとうぶらい》の上に貧乏でもありましたので、近所の人びとの財物を奪い取った事もしばしばあります。馬に乗り、弓矢をたずさえ、大道《だいどう》を往来して旅びとをおびやかしたこともあります。そのうちに或る日のこと、一人の少年が二つの大きい嚢《ふくろ》を馬に載せて来るのに逢いました。あたかも日が暮れかかって、左右は断崖絶壁のところであるので、わたくしはかの少年を崖から突き落して、馬も嚢も奪い取りました。家へ帰って調べると、嚢のなかには綾絹《あやぎぬ》が百余|反《たん》もはいっていましたので、わたくしは思わぬ金儲けをいたしました。それを機会に悪行《あくぎょう》をやめ、門を閉じて読書に努めたお蔭で、まず今日《こんにち》の身の上になりましたが、数えてみるとそれはもう二十七年の昔になります。昨夜お召しに因って王君の前に出ますと、その顔容《かおかたち》が二十七年前に殺したかの少年をその儘《まま》であるので、わたくしも実におどろきました。王君がむかしの罪を覚えていられるかどうかは知りませんが、わたくしとしては王君に殺されるのが当然のことで、自分も覚悟しています」
太守はその報告を聞いて驚嘆していると、士真は酒の酔いが醒めて、すぐに李の首を斬って来いと命令した。太守は命乞いをするすべもなくて、その言うがままに李の首を渡すと、彼はその首をみてこころよげに笑っていた。
「自分の部下にかような罪人をいだしましたのは、わたくしが重々の不行き届きでございますが、一体かれはどういうことで御機嫌を損じたのでございましょうか」と、太守はさぐるように訊いてみた。
「いや、別に罪はない」と、士真は言った。「ただその顔をみるとなんだか無暗《むやみ》に憎くなって、とうとう殺す気になったのだ。それがなぜであるかは自分にもよく判《わか》らない。もう済んでしまったことだから、その話は止そうではないか」
彼自身にもはっきりした説明が出来ないらしかった。太守はさらに士真の年を訊くと、彼はあたかも三十七歳であることが判ったので、李の懺悔の嘘ではないのがいよいよ確かめられた。
黒犬
唐の貞元年中、大理評事《だいりひょうじ》を勤めている韓《かん》と
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