いものは色赤くして長さ一尺に達していた。それが恐らくかれらの王であるらしい。あたりの土は盛り上がって、さながら宮殿のように見えた。
「こいつらの仕業だな」
 士はことごとくかれらを焚《や》き殺した。その以来、別になんの怪しみもなかった。

   怪物の口

 臨湍寺《りんたんじ》の僧|智通《ちつう》は常に法華経《ほけきょう》をたずさえていた。彼は人跡《じんせき》稀《ま》れなる寒林に小院をかまえて、一心に経文|読誦《どくじゅ》を怠らなかった。
 ある年、夜半にその院をめぐって、彼の名を呼ぶ者があった。
「智通、智通」
 内ではなんの返事もしないと、外では夜のあけるまで呼びつづけていた。こういうことが三晩もやまないばかりか、その声が院内までひびき渡るので、智通も堪えられなくなって答えた。
「どうも騒々しいな。用があるなら遠慮なしにはいってくれ」
 やがてはいって来た物がある。身のたけ六尺ばかりで、黒い衣《きもの》をきて、青い面《かお》をしていた。かれは大きい目をみはって、大きい息をついている。要するに、一種の怪物である。しかもかれは僧にむかってまず尋常に合掌した。
「おまえは寒いか」と、智通は訊いた。「寒ければ、この火にあたれ」
 怪物は無言で火にあたっていた。智通はそのままにして、法華経を読みつづけていると、夜も五更に至る頃、怪物は火に酔ったとみえて、大きい目を閉じ、大きい口をあいて、炉《ろ》に倚《よ》りかかって高いびきで寝入ってしまった。智通はそれを観て、香をすくう匙《さじ》をとって、炉の火と灰を怪物の口へ浚《さら》い込むと、かれは驚き叫んで飛び起きて、門の外へ駈け出したが、物につまずき倒れるような音がきこえて、それぎり鎮まった。
 夜があけてから、智通が表へ出てみると、かれがゆうべ倒れたらしい所に一片の木の皮が落ちていた。寺のうしろは山であるので、彼はその山へ登ってゆくと、数里(六丁一里)の奥に大きな青桐の木があった。梢《こずえ》はすでに枯れかかって、その根のくぼみに新しく欠けたらしい所があるので、試みにかの木の皮をあててみると、あたかも貼り付けたように合った。又その根の半分枯れたところに洞《うつろ》があって、深さ六、七寸、それが怪物の口であろう。ゆうべの灰と火がまだ消えもせずに残っていた。
 智通はその木を焚《や》いてしまった。

   一つの杏

 長白山《ちょうはくざん》の西に夫人の墓というのがある。なんびとの墓であるか判《わか》らない。
 魏《ぎ》の孝昭帝《こうしょうてい》のときに、令して汎《ひろ》く天下の才俊を徴《め》すということになった。清河の崔羅什《さいらじゅう》という青年はまだ弱冠《じゃっかん》ながらもかねて才名があったので、これも徴されてゆく途中、日が暮れてこの墓のほとりを過ぎると、たちまちに朱門粉壁《しゅもんふんぺき》の楼台が眼のまえに現われた。一人の侍女らしい女が出て来て、お嬢さまがあなたにお目にかかりたいと言う。崔は馬を下りて付いてゆくと、二重の門を通りぬけたところに、また一人の女が控えていて、彼を案内した。
「何分にも旅姿をしているので、この上に奥深く通るのは余りに失礼でございます」と、崔は一応辞退した。
「お嬢さまは侍中《じちゅう》の呉質《ごしつ》というかたの娘御《むすめご》で、平陵《へいりょう》の劉府君《りゅうふくん》の奥様ですが、府君はさきにおなくなりになったので、唯今さびしく暮らしておいでになります。決して御遠慮のないように」と、女はしいて崔を誘い入れた。
 誘われて通ると、あるじの女は部屋の戸口に立って迎えた。更にふたりの侍女が燭《しょく》をとっていた。崔はもちろん歓待されて、かの女と膝をまじえて語ると、女はすこぶる才藻《さいそう》に富んでいて、風雅の談の尽くるを知らずという有様である。こんな所にこんな人が住んでいる筈はない、おそらく唯の人間ではあるまいと、崔は内心疑いながらも、その話がおもしろいのに心を惹《ひ》かされて、さらに漢魏時代の歴史談に移ると、女の言うことは一々史実に符合しているので、崔はいよいよ驚かされた。
「あなたの御主人が劉氏と仰しゃることは先刻うかがいましたが、失礼ながらお名前はなんと申されました」と、崔は訊いた。
「わたくしの夫は、劉|孔才《こうさい》の次男で、名は瑤《よう》、字《あざな》は仲璋《ちゅうしょう》と申しました」と、女は答えた。「さきごろ罪があって遠方へ流されまして、それぎり戻って参りません」
 それから又しばらく話した後に、崔は暇《いとま》を告げて出ると、あるじの女は慇懃《いんぎん》に送って来た。
「これから十年の後にまたお目にかかります」
 崔は形見として、玳瑁《たいまい》のかんざしを女に贈った。女は玉の指輪を男に贈った。門を出て、ふたたび馬にのってゆくこと数十歩、見かえればかの楼台は跡なく消えて、そこには大きい塚が横たわっているのであった。こんなことになるかも知れないと、うすうす予期していたのではあるが、崔は今さら心持がよくないので、後に僧をたのんで供養をして貰って、かの指輪を布施物《ふせもつ》にささげた。
 その後に変ったこともなく、崔は郡の役人として評判がよかった。天統《てんとう》の末年に、彼は官命によって、河の堤を築くことになったが、その工事中、幕下《ばっか》のものに昔話をして、彼は涙をながした。
「ことしは約束の十年目に相当する。どうしたらよかろうか」
 聴く者も答うるところを知らなかった。工事がとどこおりなく終って、ある日、崔は自分の園中で杏《あんず》の実を食っている時、俄かに思い出したように言った。
「奥さん。もし私を嘘つきだと思わないならば、この杏を食わせないで下さい」
 彼は一つの杏を食い尽くさないうちに、たちまち倒れて死んだ。

   剣術

 韋行規《いこうき》という人の話である。
 韋が若いとき京西《きょうせい》に遊んで、日の暮れる頃にある宿場に着いた。それから更にゆく手を急ごうとすると、駅舎の前にはひとりの老人が桶を作っていた。
「お客人、夜道の旅はおやめなさい。ここらには賊が多うございます」と、彼は韋にむかって注意した。
「賊などは恐れない」と、韋は言った。「わたしも弓矢を取っては覚えがある」
 老人に別れを告げて、彼は馬上で夜道を急いでゆくと、もう夜が更《ふ》けたと思う頃に、草むらの奥から一人があらわれて、馬のあとを尾《つ》けて来るらしいので、韋は誰だと咎めても返事をしない。さてこそ曲者と、彼は馬上から矢をつがえて切って放すと、確かに手堪《てごた》えはありながら、相手は平気で迫って来るので、更に二の矢を射かけた。続いて三発、四発、いずれも手堪えはありながら、相手はちっとも怯《ひる》まない。そのうちに、矢種は残らず射尽くしてしまったので、彼も今更おそろしくなって、馬を早めて逃げ出すと、やがて又、激しい風が吹き起り、雷《らい》もすさまじく鳴りはためいて来たので、韋は馬を飛び降りて大樹の下に逃げ込んだ。
 見れば、空中には電光が飛び違って、さながら鞠《まり》を撃つ杖のようである。それが次第に舞い下がって、大樹の上にひらめきかかると、何物かが木の葉のようにばらばらと降って来た。木の葉ではなく板の札《ふだ》である。それが忽ちに地に積もって、韋の膝を埋めるほどに高くなったので、彼はいよいよ驚き恐れた。
「どうぞ助けてください」
 彼は弓矢をなげ捨てて、空にむかって拝すること数十回に及ぶと、電光はようやく遠ざかって、風も雷もまたやんだ。まずほっとして見まわすと、大樹の枝も幹も折れているばかりか、自分の馬も荷物もどこへか消え失せてしまったのである。
 こうなると、もう進んでゆく勇気はないので、早々にもと来た道を引っ返したが、今度は徒《かち》あるきであるから捗《はか》どらず、元の宿まで帰り着いた頃には夜が明けて、かの老人は店さきで桶の箍《たが》をはめていた。まさに尋常の人ではないと見て、韋は丁寧に拝して昨夜の無礼を詫びると、老人は笑いながら言った。
「弓矢を恃《たの》むのはお止しなさい。弓矢は剣術にかないませんよ」
 彼は韋を案内して、宿舎のうしろへ連れてゆくと、そこには荷物を乗せた馬が繋いであった。
「これはあなたの馬ですから、遠慮なしに牽《ひ》いておいでなさい。唯《ただ》ちっとばかりあなたを試して見たのです。いや、もう一つお目にかける物がある」
 老人はさらに桶の板一枚を出してみせると、ゆうべの矢はことごとくその板の上に立っていた。

   刺青

 都の市中に住む悪少年どもは、かれらの習いとして大抵は髪を切っている。そうして、膚《はだ》には種々の刺青《ほりもの》をしている。諸軍隊の兵卒らもそれに加わって乱暴をはたらき、蛇《へび》をたずさえて酒家にあつまる者もあれば、羊脾《ようひ》をとって人を撃つ者もあるので、京兆《けいちょう》(京師の地方長官)をつとめる薛公《せつこう》が上《かみ》に申し立ててかれらを処分することとなり、里長《さとおさ》に命じて三千人の部下を忍ばせ、見あたり次第に片端から引っ捕えて、ことごとく市《いち》に於《お》いて杖殺《じょうさつ》させた。
 そのなかに大寧坊《たいねいぼう》に住む張幹《ちょうかん》なる者は、左の腕に『生不怕京兆尹《いきてけいちょうのいんをおそれず》』右の腕に『死不怕閻羅王《ししてえんらおうをおそれず》』と彫《ほ》っていた。また、王力奴《おうりきど》なるものは、五千銭をついやして胸から腹へかけて一面に山水、邸宅、草木、鳥獣のたぐいを精細に彫らせていた。
 かれらも無論に撃ち殺されたのである。その以来、市中で刺青をしている者どもは、みな争ってそれを焼き消してしまった。
 また、元和の末年に李夷簡《りいかん》という人が蜀《しょく》の役人を勤めていたとき、蜀の町に住む趙高《ちょうこう》という男は喧嘩を商売のようにしている暴《あば》れ者で、それがために幾たびか獄屋に入れられたが、彼は背中一面に毘沙門天《びしゃもんてん》の像を彫っているので、獄吏もその尊像を憚《はばか》って杖をあてることが出来ない。それを幸いにして、彼はますますあばれ歩くのである。
「不埒至極の奴だ。毘沙門でもなんでも容赦するな」
 李は彼を引っくくらせて役所の前にひき据え、新たに作った筋金《すじがね》入りの杖で、その背中を三十回余も続けうちに撃ち据えさせた。それでも彼は死なないで無事に赦し還された。
 これでさすがに懲りるかと思いのほか、それから十日ほどの後、趙は肌ぬぎになって役所へ呶鳴り込んで来た。
「ごらんなさい。あなた方のおかげで毘沙門天の御尊像が傷だらけになってしまいました。その修繕をしますから、相当の御寄進《ごきしん》をねがいます」
 李が素直にその寄進に応じたかどうかは、伝わっていない。

   朱髪児

 厳綬《げんじゅ》が治めていた太原《たいげん》市中の出来事である。
 町の小児《しょうに》らが河に泳いでいると、或る物が中流をながれ下って来たので、かれらは争ってそれを拾い取ると、それは一つの瓦の瓶《かめ》で、厚い帛《きぬ》をもって幾重《いくえ》にも包んであった。岸へ持って来て打ち毀《こわ》すと、瓶のなかからは身のたけ一尺ばかりの赤児《あかご》が跳《おど》り出したので、小児らはおどろき怪しんで追いまわすと、たちまち足もとに一陣の旋風が吹き起って、かの赤児は地を距《さ》る数尺の空を踏みながら、再び水中へ飛び去ろうとした。
 岸に居あわせた船頭がそれを怪物とみて、棹《さお》をとって撃ち落すと、赤児はそのまま死んでしまったが、その髪は朱のように赤く、その眼は頭の上に付いていた。

   人面瘡《じんめんそう》

 数十年前のことである。江東《こうとう》の或る商人《あきんど》の左の二の腕に不思議の腫物《しゅもつ》が出来た。その腫物は人の面《かお》の通りであるが、別になんの苦痛もなかった。ある時たわむれに、その腫物の口中へ酒をそそぎ入れると、残らずそれを吸い込んで、腫物の面《かお》は、酔ったように赤くなった。食い物をあたえ
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