ら》ました。

   北斗七星の秘密

 唐の玄宗《げんそう》皇帝の代に、一行《いちぎょう》という高僧があって、深く皇帝の信任を得ていた。
 一行は幼いとき甚だ貧窮であって、隣家の王《おう》という老婆から常に救われていた。彼は立身の後もその恩を忘れず、なにか王婆に酬《むく》いたいと思っていると、あるとき王婆の息子が人殺しの罪に問われることになったので、母は一行のところへ駈け付けて、泣いて我が子の救いを求めたが、彼は一応ことわった。
「わたしは決して昔の恩を忘れはしない。もし金や帛《きぬ》が欲しいというのならば、どんなことでも肯《き》いてあげる。しかし明君が世を治めている今の時代に、人殺しの罪を赦《ゆる》すなどということは出来るものでない。たとい私から哀訴したところで、上《かみ》でお取りあげにならないに決まっているから、こればかりは私の力にも及ばないと諦めてもらいたい」
 それを聞いて、王婆は手を戟《ほこ》にして罵った。
「なにかの役にも立とうかと思えばこそ、久しくお前の世話をしてやったのだ。まさかの時にそんな挨拶を聞くくらいなら、お前なんぞに用はないのだ」
 彼女は怒って立ち去ろうとするのを、一行は追いかけて、頻《しき》りによんどころない事情を説明して聞かせたが、王婆は見返りもせずに出て行ってしまった。
「どうも困ったな」
 一行は思案の末に何事をか考え付いた。都の渾天寺《こんてんじ》は今や工事中で、役夫《えきふ》が数百人もあつまっている。その一室を空《から》明きにさせて、まん中に大|瓶《かめ》を据えた。それから又、多年召仕っている僕《しもべ》二人を呼んで、大きい布嚢《ぬのぶくろ》を授けてささやいた。
「町の角に、住む人もない荒園《あれにわ》がある。おまえ達はそこへ忍び込んで、午《うま》の刻《こく》(午前十一時―午後一時)から夕方まで待っていろ。そうすると七つの物がはいって来る。それを残らずこの嚢に入れて来い。数は七つだぞ。一つ不足しても勘弁しないからそう思え」
 僕どもは指図通りにして待っていると、果たして酉《とり》の刻(午後五時―七時)を過ぎる頃に、荒園の草をふみわけて豕《いのこ》の群れがはいってきたので、一々に嚢をかぶせて捕えると、その数はあたかも七頭であった。持って帰ると、一行は大いに喜んで、その豕をかの瓶のなかに封じ込めて、木の蓋をして、上に大きい梵字《ぼんじ》を書いた。それが何のまじないであるかは、誰にもわからなかった。
 あくる朝になると、宮中から急使が来て、一行は皇帝の前に召出された。
「不思議のことがある」と、玄宗は言った。「太史《たいし》(史官)の奏上《そうじょう》によると、昨夜は北斗《ほくと》七星が光りを隠《かく》したということである。それは何の祥《しょう》であろう。師にその禍いを攘《はら》う術があるか」
「北斗が見えぬとは容易ならぬことでござります」と、一行は言った。「御用心なさらねばなりませぬ。匹夫《ひっぷ》匹婦《ひっぷ》もその所を得ざれば、夏に霜を降らすこともあり、大いに旱《ひでり》することもござります。釈門《しゃくもん》の教えとしては、いっさいの善慈心をもって、いっさいの魔を降すのほかはござりませぬ」
 彼は天下に大赦《たいしゃ》の令をくだすことを勧《すす》めて、皇帝もそれにしたがった。その晩に、太史がまた奏上した。
「北斗星が今夜は一つ現われました」
 それから毎晩一つずつの星が殖えて、七日の後には七星が今までの通りに光り輝いた。大赦の令によって王婆の息子が救われたのは言うまでもない。

   駅舎の一夜

 孟不疑《もうふぎ》という挙人《きょじん》(進士《しんし》の試験に応ずる資格のある者)があった。昭義《しょうぎ》の地方に旅寝して、ある夜ある駅に泊まって、まさに足をすすごうとしているところへ、※[#「さんずい+「緇」のつくり」、第3水準1−86−81]青《しせい》の張《ちょう》という役人が数十人の供を連れて、おなじ旅舎へ乗り込んで来た。相手が高官とみて、孟は挨拶に出たが、張は酒を飲んでいて顧りみないので、孟はその倨傲《きょごう》を憤りながら、自分は西の部屋へ退いた。
 張は酔った勢いで、しきりに威張り散らしていた。大きい声で駅の役人を呼び付けて、焼餅《しょうべい》を持って来いと呶鳴った。どうも横暴な奴だと、孟はいよいよ不快を感じながら、ひそかにその様子をうかがっていると、暫くして注文の焼餅を運んで来たので、孟はまた覗いてみると、その焼餅を盛った盤《ばん》にしたがって、一つの黒い物が入り込んで来た。それは猪《しし》のようなものであるらしく、燈火《あかり》の下へ来てその影は消えた。張は勿論、ほかの者もそれに気が注《つ》かなかったらしいが、孟は俄かに恐怖をおぼえた。
「あれは何だろう」
 孤駅のゆうべにこの怪を見て、孟はどうしても眠ることが出来なかったが、張は酔って高|鼾《いびき》で寝てしまった。供の者は遠い部屋に退いて、張の寝間は彼ひとりであった。その夜も三更《さんこう》(午後十一時―午前一時)に及ぶころおいに、孟もさすがに疲れてうとうとと眠ったかと思うと、唯ならぬ物音にたちまち驚き醒めた。一人の黒い衣《きもの》を着た男が張と取っ組み合っているのである。やがて組んだままで東の部屋へ転げ込んで、たがいに撲《なぐ》り合う拳《こぶし》の音が杵《きね》のようにきこえた。孟は息を殺してその成り行きをうかがっていると、暫くして張は散らし髪の両肌ぬぎで出て来て、そのまま自分の寝床にあがって、さも疲れたように再び高鼾で寝てしまった。
 五更《ごこう》(午前三時―五時)に至って、張はまた起きた。僕《しもべ》を呼んで燈火をつけさせ、髪をくしけずり、衣服をととのえて、改めて同宿の孟に挨拶した。
「昨夜は酔っていたので、あなたのことをちっとも知らず、甚だ失礼をいたしました」
 それから食事を言い付けて、孟と一緒に仲よく箸をとった。そのあいだに、彼は小声で言った。
「いや、まだほかにもお詫びを致すことがある。昨夜は甚だお恥かしいところを御覧《ごらん》に入れました。どうぞ幾重にも御内分にねがいます」
 相手があやまるように頼むので、孟はその上に押して聞くのを遠慮して、ただ、はいはいとうなずいていると、張は自分も早く出発する筈であるが、あなたもお構いなくお先へお発ち下さいと言った。別れるときに、張は靴の中から金一|※[#「金+廷」、第3水準1−93−17]《てい》を探り出して孟に贈って、ゆうべのことは必ず他言して下さるなと念を押した。
 何がなんだか判らないが、孟は張に別れて早々にここを出発した。まだ明け切らない路を急いで、およそ五、六里も行ったかと思うと、人殺しの賊を捕えるといって、役人どもが立ち騒いでいるのを見た。その子細《しさい》を聞きただすと、※[#「さんずい+「緇」のつくり」、第3水準1−86−81]青の評事の役を勤める張という人が殺されたというのである。孟はおどろいて更に詳しく聞き合わせると、賊に殺されたと言っているけれども、張が実際の死にざまは頗る奇怪なものであった。
 孟がひと足さきに出たあとで、張の供の者どもは、出発の用意を整えて、主人と共に駅舎を出た。あかつきはまだ暗い。途中で気がついてみると、馬上の主人はいつか行くえ不明になって、馬ばかり残っているのである。さあ大騒ぎになって、再び駅舎へ引っ返して詮議すると、西の部屋に白骨が見いだされた。肉もない、血も流れていない。ただそのそばに残っていた靴の一足によって、それが張の遺骨であることを知り得たに過ぎなかった。
 こうしてみると、それが普通の賊の仕業《しわざ》でないことは判り切っていた。駅の役人も役目の表として賊を捕えるなどと騒ぎ立てているものの、孟にむかって窃《ひそ》かにこんなことを洩らした。
「この駅の宿舎には昔から凶《わる》いことがしばしばあるのですが、その妖怪の正体は今にわかりません」

   小人

 唐の太和《たいわ》の末年である。松滋《しょうじ》県の南にひとりの士があって、親戚の別荘を借りて住んでいた。初めてそこへ着いた晩に、彼は士人の常として、夜の二更(午後九時―十一時)に及ぶ頃まで燈火《ともしび》のもとに書を読んでいると、たちまち一人の小さい人間が門から進み入って来た。
 人間といっても、かれは極めて小さく、身の丈《たけ》わずかに半寸に過ぎないのである。それでも葛《くず》の衣《きもの》を着て、杖を持って、悠然とはいり込んで来て、大きい蠅《はえ》の鳴くような声で言った。
「きょう来たばかりで、ここには主人もなく、あなた一人でお寂しいであろうな」
 こんな不思議な人間が眼の前にあらわれて来ても、その士は頗る胆力があるので、素知らぬ顔をして書物を読みつづけていると、かの人間は機嫌を損じた。
「お前はなんだ。主人と客の礼儀をわきまえないのか」
 士はやはり相手にならないので、かれは机の上に登って来て、士の読んでいる書物を覗いたりして、しきりに何か悪口を言った。それでも士は冷然と構えているので、かれも燥《じ》れてきたとみえて、だんだんに乱暴をはじめて、そこにある硯《すずり》を書物の上に引っくり返した。士もさすがにうるさくなったので、太い筆をとってなぐり付けると、彼は地に墜《お》ちてふた声三声叫んだかと思うと、たちまちにその姿は消えた。
 暫くして、さらに四、五人の女があらわれた。老いたのもあれば、若いのもあり、皆そのたけは一寸ぐらいであったが、柄にも似合わない大きい声をふり立てて、士に迫って来た。
「あなたが独りで勉強しているのを見て、殿さまが若殿をよこして、学問の奥義《おうぎ》を講釈させて上げようと思ったのです。それが判らないで、あなたは乱暴なことをして、若殿にお怪我をさせるとは何のことです。今にそのお咎《とが》めを蒙《こうむ》るから、覚えておいでなさい」
 言うかと思う間もなく、大勢《おおぜい》の小さい人間が蟻《あり》のように群集してきて、机に登り、床にのぼって、滅茶苦茶に彼をなぐった。士もなんだか夢のような心持になって、かれらを追い攘《はら》うすべもなく、手足をなぐられるやら、噛まれるやら、さんざんの目に逢わされた。
「さあ、早く行け。さもないと貴様の眼をつぶすぞ」と、四、五人は彼の面《かお》にのぼって来たので、士はいよいよ閉口した。
 もうこうなれば、かれらの命令に従うのほかはないので、士はかれらに導かれて門を出ると、堂の東に節使衙門《せつしがもん》のような小さい門がみえた。
「この化け物め。なんで人間にむかって無礼を働くのだ」と、士は勇気を回復して叫んだが、やはり多勢《たぜい》にはかなわない。又もやかれらに噛まれて撲られて、士は再びぼんやりしているうちに、いつか其の小さい門の内へ追いこまれてしまった。
 見れば、正面に壮大な宮殿のようなものがあって、殿上には衣冠の人が坐っている。階下には侍衛らしい者が、数千人も控えている。いずれも一寸あまりの小さい人間ばかりである。衣冠の人は士を叱った。
「おれは貴様が独りでいるのを憐れんで、話し相手に子供を出してやると、飛んでもない怪我をさせた。重々《じゅうじゅう》不埒《ふらち》な奴だ。その罪を糺《ただ》して胴斬りにするから覚悟しろ」
 指図にしたがって、数十人が刃《やいば》をぬき連れてむかって来たので、士は大いに懼《おそ》れた。彼は低頭して自分の罪を謝すと、相手の顔色も少しくやわらいだ。
「ほんとうに後悔したのならば、今度だけは特別をもって赦《ゆる》してやる。以後つつしめ」
 士もほっとして送りだされると、いつか元の門外に立っていた。時はすでに五更で、部屋に戻ると、机の上には読書のともしびがまだ消え残っていた。
 あくる日、かの怪しい奴らの来たらしい跡をさがしてみると、東の古い階段の下に、粟粒《あわつぶ》ほどの小さい穴があって、その穴から守宮《やもり》が出這入りしているのを発見した。士はすぐに幾人の人夫を雇って、その穴をほり返すと、深さ数丈のところにたくさんの守宮が棲んでいて、その大き
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