の札《ふだ》である。それが忽ちに地に積もって、韋の膝を埋めるほどに高くなったので、彼はいよいよ驚き恐れた。
「どうぞ助けてください」
 彼は弓矢をなげ捨てて、空にむかって拝すること数十回に及ぶと、電光はようやく遠ざかって、風も雷もまたやんだ。まずほっとして見まわすと、大樹の枝も幹も折れているばかりか、自分の馬も荷物もどこへか消え失せてしまったのである。
 こうなると、もう進んでゆく勇気はないので、早々にもと来た道を引っ返したが、今度は徒《かち》あるきであるから捗《はか》どらず、元の宿まで帰り着いた頃には夜が明けて、かの老人は店さきで桶の箍《たが》をはめていた。まさに尋常の人ではないと見て、韋は丁寧に拝して昨夜の無礼を詫びると、老人は笑いながら言った。
「弓矢を恃《たの》むのはお止しなさい。弓矢は剣術にかないませんよ」
 彼は韋を案内して、宿舎のうしろへ連れてゆくと、そこには荷物を乗せた馬が繋いであった。
「これはあなたの馬ですから、遠慮なしに牽《ひ》いておいでなさい。唯《ただ》ちっとばかりあなたを試して見たのです。いや、もう一つお目にかける物がある」
 老人はさらに桶の板一枚を出してみせると、ゆうべの矢はことごとくその板の上に立っていた。

   刺青

 都の市中に住む悪少年どもは、かれらの習いとして大抵は髪を切っている。そうして、膚《はだ》には種々の刺青《ほりもの》をしている。諸軍隊の兵卒らもそれに加わって乱暴をはたらき、蛇《へび》をたずさえて酒家にあつまる者もあれば、羊脾《ようひ》をとって人を撃つ者もあるので、京兆《けいちょう》(京師の地方長官)をつとめる薛公《せつこう》が上《かみ》に申し立ててかれらを処分することとなり、里長《さとおさ》に命じて三千人の部下を忍ばせ、見あたり次第に片端から引っ捕えて、ことごとく市《いち》に於《お》いて杖殺《じょうさつ》させた。
 そのなかに大寧坊《たいねいぼう》に住む張幹《ちょうかん》なる者は、左の腕に『生不怕京兆尹《いきてけいちょうのいんをおそれず》』右の腕に『死不怕閻羅王《ししてえんらおうをおそれず》』と彫《ほ》っていた。また、王力奴《おうりきど》なるものは、五千銭をついやして胸から腹へかけて一面に山水、邸宅、草木、鳥獣のたぐいを精細に彫らせていた。
 かれらも無論に撃ち殺されたのである。その以来、市中で刺青をしている者ど
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