こと数十歩、見かえればかの楼台は跡なく消えて、そこには大きい塚が横たわっているのであった。こんなことになるかも知れないと、うすうす予期していたのではあるが、崔は今さら心持がよくないので、後に僧をたのんで供養をして貰って、かの指輪を布施物《ふせもつ》にささげた。
 その後に変ったこともなく、崔は郡の役人として評判がよかった。天統《てんとう》の末年に、彼は官命によって、河の堤を築くことになったが、その工事中、幕下《ばっか》のものに昔話をして、彼は涙をながした。
「ことしは約束の十年目に相当する。どうしたらよかろうか」
 聴く者も答うるところを知らなかった。工事がとどこおりなく終って、ある日、崔は自分の園中で杏《あんず》の実を食っている時、俄かに思い出したように言った。
「奥さん。もし私を嘘つきだと思わないならば、この杏を食わせないで下さい」
 彼は一つの杏を食い尽くさないうちに、たちまち倒れて死んだ。

   剣術

 韋行規《いこうき》という人の話である。
 韋が若いとき京西《きょうせい》に遊んで、日の暮れる頃にある宿場に着いた。それから更にゆく手を急ごうとすると、駅舎の前にはひとりの老人が桶を作っていた。
「お客人、夜道の旅はおやめなさい。ここらには賊が多うございます」と、彼は韋にむかって注意した。
「賊などは恐れない」と、韋は言った。「わたしも弓矢を取っては覚えがある」
 老人に別れを告げて、彼は馬上で夜道を急いでゆくと、もう夜が更《ふ》けたと思う頃に、草むらの奥から一人があらわれて、馬のあとを尾《つ》けて来るらしいので、韋は誰だと咎めても返事をしない。さてこそ曲者と、彼は馬上から矢をつがえて切って放すと、確かに手堪《てごた》えはありながら、相手は平気で迫って来るので、更に二の矢を射かけた。続いて三発、四発、いずれも手堪えはありながら、相手はちっとも怯《ひる》まない。そのうちに、矢種は残らず射尽くしてしまったので、彼も今更おそろしくなって、馬を早めて逃げ出すと、やがて又、激しい風が吹き起り、雷《らい》もすさまじく鳴りはためいて来たので、韋は馬を飛び降りて大樹の下に逃げ込んだ。
 見れば、空中には電光が飛び違って、さながら鞠《まり》を撃つ杖のようである。それが次第に舞い下がって、大樹の上にひらめきかかると、何物かが木の葉のようにばらばらと降って来た。木の葉ではなく板
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