うべにこの怪を見て、孟はどうしても眠ることが出来なかったが、張は酔って高|鼾《いびき》で寝てしまった。供の者は遠い部屋に退いて、張の寝間は彼ひとりであった。その夜も三更《さんこう》(午後十一時―午前一時)に及ぶころおいに、孟もさすがに疲れてうとうとと眠ったかと思うと、唯ならぬ物音にたちまち驚き醒めた。一人の黒い衣《きもの》を着た男が張と取っ組み合っているのである。やがて組んだままで東の部屋へ転げ込んで、たがいに撲《なぐ》り合う拳《こぶし》の音が杵《きね》のようにきこえた。孟は息を殺してその成り行きをうかがっていると、暫くして張は散らし髪の両肌ぬぎで出て来て、そのまま自分の寝床にあがって、さも疲れたように再び高鼾で寝てしまった。
五更《ごこう》(午前三時―五時)に至って、張はまた起きた。僕《しもべ》を呼んで燈火をつけさせ、髪をくしけずり、衣服をととのえて、改めて同宿の孟に挨拶した。
「昨夜は酔っていたので、あなたのことをちっとも知らず、甚だ失礼をいたしました」
それから食事を言い付けて、孟と一緒に仲よく箸をとった。そのあいだに、彼は小声で言った。
「いや、まだほかにもお詫びを致すことがある。昨夜は甚だお恥かしいところを御覧《ごらん》に入れました。どうぞ幾重にも御内分にねがいます」
相手があやまるように頼むので、孟はその上に押して聞くのを遠慮して、ただ、はいはいとうなずいていると、張は自分も早く出発する筈であるが、あなたもお構いなくお先へお発ち下さいと言った。別れるときに、張は靴の中から金一|※[#「金+廷」、第3水準1−93−17]《てい》を探り出して孟に贈って、ゆうべのことは必ず他言して下さるなと念を押した。
何がなんだか判らないが、孟は張に別れて早々にここを出発した。まだ明け切らない路を急いで、およそ五、六里も行ったかと思うと、人殺しの賊を捕えるといって、役人どもが立ち騒いでいるのを見た。その子細《しさい》を聞きただすと、※[#「さんずい+「緇」のつくり」、第3水準1−86−81]青の評事の役を勤める張という人が殺されたというのである。孟はおどろいて更に詳しく聞き合わせると、賊に殺されたと言っているけれども、張が実際の死にざまは頗る奇怪なものであった。
孟がひと足さきに出たあとで、張の供の者どもは、出発の用意を整えて、主人と共に駅舎を出た。あかつきはまだ
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