かった。留守は若い妻と一人の僕《しもべ》ばかりで、かれらはいつか密通した。
張は都にあるあいだに一匹の狗《いぬ》を飼った。それは甚だすこやかな狗であるので、張は烏龍《うりゅう》と名づけて愛育しているうちに、いったん帰郷することとなったので、彼は烏龍を伴って帰った。
夫が突然に帰って来たので、妻と僕は相談の末に彼を亡き者にしようと企てた。妻は飯の支度をして、夫と共に箸をとろうとする時、俄かに形をあらためて言った。
「これが一生のお別れです。あなたも機嫌よく箸をおとりなさい」
おかしなことを言うと思うと、部屋の入口には僕が刀を帯びて、弓に矢をつがえて立っていた。彼は主人の食事の終るのを待っているのである。さてはと覚ったが、もうどうすることも出来ないので、張はただ泣くばかりであった。烏龍はその時も主人のそばに付いていたので、張は皿のなかの肉をとって狗にあたえた。
「わたしはここで殺されるのだ。お前は救ってくれるか」
烏龍はその肉を啖《く》わないで、眼を据え、くちびるを舐《ねぶ》りながら、仇の僕を睨みつめているのである。張もその意を覚って、やや安心していると、僕は待ちかねて早く食え食えと主人に迫るので、張は奮然決心して、わが膝を叩きながら大いに叫んだ。
「烏龍、やっつけろ」
狗は声に応じて飛びかかって僕に咬みついた。それが飛鳥のような疾《はや》さであるので、彼は思わず得物を取り落して地に倒れた。張はその刀を奪って、直ちに不義の僕を斬り殺した。妻は県の役所へ引き渡されて、法のごとくに行なわれた。
鷺娘
銭塘《せんとう》の杜《と》という人が船に乗って行った。時は雪の降りしきる夕暮れである。白い着物をきた一人の若い女が岸の上を来かかったので、杜は船中から声をかけた。
「姐《ねえ》さん。雪のふるのにお困りだろう。こっちの船へおいでなさい」
女も立ち停まってそれに答えた。たがいに何か冗談を言い合った末に、杜は女をわが船へ乗せてゆくと、やがて女は一羽の白鷺《しらさぎ》となって雪のなかを飛び去ったので、杜は俄かにぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。それから間もなく、彼は病んで死んだ。
蜜蜂
宋の元嘉《げんか》元年に、建安《けんあん》郡の山賊百余人が郡内へ襲って来て、民家の財産や女たちを掠奪した。
その挙げ句に、かれらは或る寺へも乱入して財宝を掠《かす》め取ろうとした。この寺ではかねて供養に用いる諸道具を別室に蔵《おさ》めてあったので、賊はその室《へや》の戸を打ち毀《こわ》して踏み込むと、忽ちに法衣《ころも》を入れてある革籠《かわご》のなかから幾万匹の蜜蜂が飛び出した。その幾万匹が一度に群がって賊を螫《さ》したので、かれらも狼狽した。ある者は体じゅうを螫され、ある者は眼を突きつぶされ、初めに掠奪した獲物をもみな打ち捨てて、転げまわって逃げ去った。
犬妖
林慮山《りんりょざん》の下に一つの亭がある。ここを通って、そこに宿る者はみな病死するということになっている。あるとき十余人の男おんなが入りまじって博奕《ばくち》をしているのを見た者があって、かれらは白や黄の着物をきていたと伝えられた。
※[#「至+おおざと」、第3水準1−92−67]伯夷《しつはくい》という男がそこに宿って、燭《しょく》を照らして経《きょう》を読んでいると、夜なかに十余人があつまって来て、彼と列《なら》んで坐を占めたが、やがて博奕の勝負をはじめたので、※[#「至+おおざと」、第3水準1−92−67]はひそかに燭をさし付けて窺うと、かれらの顔はみな犬であった。そこで、燭を執って起《た》ちあがる時、かれは粗相《そそう》の振りをして、燭の火をかれらの着物にこすり付けると、着物の焦げるのがあたかも毛を燃やしたように匂ったので、もう疑うまでもないと思った。
かれは懐ろ刀をぬき出して、やにわにその一人を突き刺すと、初めは人のような叫びを揚げたが、やがて倒れて犬の姿になった。それを見て、他の者どもはみな逃げ去った。
干宝の父
東晋の干宝《かんぽう》は字《あざな》を令升《れいしょう》といい、その祖先は新蔡《しんさい》の人である。かれの父の瑩《けい》という人に一人の愛妾があったが、母は非常に嫉妬ぶかい婦人で、父が死んで埋葬する時に、ひそかにその妾をも墓のなかへ押し落して、生きながらに埋めてしまった。当時、干宝もその兄もみな幼年であったので、そんな秘密をいっさい知らなかったのである。
それから十年の後に、母も死んだ。その死体を合葬するために父の墓をひらくと、かの妾が父の棺の上に俯伏しているのを発見した。衣服も生きている時の姿と変らず、身内もすこしく温かで、息も微かにかよっているらしい。驚き怪しんで輿《こし》にかき乗せ、自宅へ連れ戻って介抱すると、五、六日の後にまったく蘇生した。
妾の話によると、その十年のあいだ、死んだ父が常に飲み食いの物を運んでくれた。そうして、生きている時と同じように、彼女と一緒に寝起きをしていたのみか、自宅に吉凶のことある毎《ごと》に、一々彼女に話して聞かせたというのである。あまりに不思議なことであるので、干宝兄弟は試みに彼女に問いただしてみると、果たして彼女は父が死後の出来事をみなよく知っていて、その言うところがすべて事実と符合するのであった。彼女はその後幾年を無事に送って、今度はほんとうに死んだ。
干宝は『捜神記』の著者である。彼が天地のあいだに幽怪神秘のことあるを信じて、その述作に志すようになったのは、少年時代におけるこの実験に因ったのであると伝えられている。
大蛟
安城平都《あんじょうへいと》県の尹氏《いんし》の宅は郡の東十里の日黄《じつこう》村にあって、そこに小作人《こさくにん》も住んでいた。
元嘉《げんか》二十三年六月のことである。ことし十三になる尹氏の子供が、小作の小屋の番をしていると、一人の男が来た。男は年ごろ二十《はたち》ぐらいで、白い馬に騎《の》って繖《かさ》をささせていた。ほかに従者四人、みな黄衣を着て東の方から来たが、ここの門前に立って尹氏の子供を呼び出し、暫く休息させてくれと言った。承知して通すと、男は庭へはいって床几《しょうぎ》に腰をおろした。従者の一人が繖をさしかけていた。見ると、この人たちの着物には縫い目がなく、鱗《うろこ》のような五色の斑《ふ》があって、毛がなかった。やがて雨を催して来ると、男は馬に騎《の》った。
「あしたまた来ます」と、彼は子供を見かえって言った。その去るところを見ると、この一行は西へむかい、空を踏んで次第に高く昇って行った。暫くすると、雲が四方から集まって白昼も闇のようになった。
その翌日、俄かに大水が出て、山も丘も谷もみなひたされ、尹の小作小屋もまさに漂い去ろうとした。このとき長さ三丈とも見える大きい蛟《みずち》があらわれて、身をめぐらして此の家を護った。
白水素女
晋の安帝《あんてい》のとき、候官《こうかん》県の謝端《しゃたん》は幼い頃に父母をうしない、別に親類もないので、となりの人に養育されて成長した。
謝端はやがて十七、八歳になったが、努《つと》めて恭謹の徳を守って、決して非法の事をしなかった。初めて家を持った時には、いまだ定まる妻がないので、となりの人も気の毒に思って、然るべき妻を探してやろうと心がけていたが、相当の者も見付からなかった。
彼は早く起き、遅く寝て、耕作に怠りなく働いていると、あるとき村内で大きい法螺貝《ほらがい》を見つけた。三升入りの壺ほどの大きい物である。めずらしいと思って持ち帰って、それを甕《かめ》のなかに入れて置いた。その後、彼はいつもの如くに早く出て、夕過ぎに帰ってみると、留守のあいだに飯や湯の支度がすっかり出来ているのである。おそらく隣りの人の親切であろうと、数日の後に礼を言いに行くと、となりの人は答えた。
「わたしは何もしてあげた覚えはない。おまえはなんで礼をいうのだ」
謝端にも判《わか》らなくなった。しかも一度や二度のことではないので、彼はさらに聞きただすと、隣りの人はまた笑った。
「おまえはもう女房をもらって、家のなかに隠してあるではないか。自分の女房に煮焚《にた》きをさせて置きながら、わたしにかれこれ言うことがあるものか」
彼は黙って考えたが、何分にも理屈が呑み込めなかった。次の日は早朝から家を出て、また引っ返して籬《かき》の外から窺っていると、一人の少女が甕の中から出て、竈《かまど》の下に火を焚きはじめた。彼は直ぐに家へはいって甕のなかをあらためると、かの法螺貝は見えなくて、竈の下の女を見るばかりであった。
「おまえさんはどこから来て、焚き物をしていなさるのだ」と、彼は訊いた。
女は大いに慌てたが、今さら甕のなかへ帰ろうにも帰られないので、正直に答えた。
「わたしは天漢《てんかん》の白水素女《はくすいそじょ》です。天帝はあなたが早く孤児《みなしご》になって、しかも恭謹の徳を守っているのをあわれんで、仮りにわたしに命じて、家を守り、煮焚きのわざを勤めさせていたのです。十年のうちにはあなたを富ませ、相当の妻を得るようにして、わたしは帰るつもりであったのですが、あなたはひそかに窺ってわたしの形を見付けてしまいました。もうこうなっては此処《ここ》にとどまることは出来ません。あなたはこの後も耕し、漁《すなど》りの業《わざ》をして、世を渡るようになさるがよろしい。この法螺貝を残して行きますから、これに米穀《べいこく》をたくわえて置けば、いつでも乏《とぼ》しくなるような事はありません」
それと知って、彼はしきりにとどまることを願ったが、女は肯《き》かなかった。俄かに風雨が起って、彼女は姿をかくした。その後、彼は神座をしつらえて、祭祀《さいし》を怠らなかったが、その生活はすこぶる豊かで、ただ大いに富むというほどでないだけであった。土地の人の世話で妻を迎え、後に仕えて令長となった。
今の素女祠《そじょし》がその遺跡である。
千年の鶴
丁令威《ていれいい》は遼東《りょうとう》の人で、仙術を霊虚山《れいきょざん》に学んだが、後に鶴に化《け》して遼東へ帰って来て、城門の柱に止まった。ある若者が弓をひいて射ようとすると、鶴は飛びあがって空中を舞いながら言った。
「鳥あり、鳥あり、丁令威。家を去る千年、今始めて帰る。城廓|故《もと》の如くにして、人民非なり。なんぞ仙を学ばざるか、塚|※[#「田/(田+田)/糸」、第3水準1−90−24]々《るいるい》たり」
遂に大空高く飛び去った。今でも遼東の若者らは、自分たちの先代に仙人となった者があると言い伝えているが、それが丁令威という人であることを知らない。
箏笛浦
廬江《ろこう》の箏笛浦《そうてきほ》には大きい船がくつがえって水底に沈んでいる。これは魏《ぎ》王|曹操《そうそう》の船であると伝えられている。
ある時、漁師が夜中に船を繋いでいると、そのあたりに笛や歌の声がきこえて、香《こう》の匂いが漂っていた。漁師が眠りに就くと、なにびとか来て注意した。
「官船に近づいてはならぬぞ」
おどろいて眼をさまして、漁師はわが船を他の場所へ移した。沈んでいる船は幾人の歌妓《うたひめ》を載せて来て、ここの浦で顛覆《てんぷく》したのであるという。
凶宅
宋の襄城《じょうじょう》の李頤《りい》、字《あざな》は景真《けいしん》、後に湘東《しょうとう》の太守になった人であるが、その父は妖邪を信じない性質であった。近所に一軒の凶宅があって、住む者はかならず死ぬと言い伝えられているのを、父は買い取って住んでいたが、多年無事で子孫繁昌した。
そのうちに、父は県知事に昇って移転することになったので、内外の親戚らを招いて留別《りゅうべつ》の宴を開いた。その宴席で父は言った。
「およそ天下に吉だとか凶だとかいう事があるだろうか。この家もむかしから凶宅だといわれていたが、わたしが多年住んでいるうちに何事もなく、家はますます繁昌して今度も
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