かった。留守は若い妻と一人の僕《しもべ》ばかりで、かれらはいつか密通した。
 張は都にあるあいだに一匹の狗《いぬ》を飼った。それは甚だすこやかな狗であるので、張は烏龍《うりゅう》と名づけて愛育しているうちに、いったん帰郷することとなったので、彼は烏龍を伴って帰った。
 夫が突然に帰って来たので、妻と僕は相談の末に彼を亡き者にしようと企てた。妻は飯の支度をして、夫と共に箸をとろうとする時、俄かに形をあらためて言った。
「これが一生のお別れです。あなたも機嫌よく箸をおとりなさい」
 おかしなことを言うと思うと、部屋の入口には僕が刀を帯びて、弓に矢をつがえて立っていた。彼は主人の食事の終るのを待っているのである。さてはと覚ったが、もうどうすることも出来ないので、張はただ泣くばかりであった。烏龍はその時も主人のそばに付いていたので、張は皿のなかの肉をとって狗にあたえた。
「わたしはここで殺されるのだ。お前は救ってくれるか」
 烏龍はその肉を啖《く》わないで、眼を据え、くちびるを舐《ねぶ》りながら、仇の僕を睨みつめているのである。張もその意を覚って、やや安心していると、僕は待ちかねて早く食え食え
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