ことである。山の上に火が起って、烟《けむ》りや火焔《ほのお》が高く舞いあがり、人馬の物音や甲冑《かっちゅう》のひびきが物《もの》騒がしくきこえたので、さては賊軍が押し寄せて来たに相違ないと、いずれも俄かに用心した。張はかれらを迎え撃つために、軍士を率いて駈けむかうと、山のあたりに人影はみえず、ただ無数の火の粉が飛んで来て、人の鎧や馬のたてがみに燃えつくので、皆おどろいて逃げ戻った。
あくる朝、再び山へ登ってみると、どこにも火を焚《た》いたらしい跡はなく、ただ百人あまりの枯れた髑髏《どくろ》がそこらに散乱しているのみであった。
山※[#「操」の「てへん」に代えて「けものへん」、第4水準2−80−51]
宋《そう》(南朝)の元嘉《げんか》年間のはじめである。富陽《ふよう》の人、王《おう》という男が蟹《かに》を捕るために、河のなかへ※[#「竹/斷」、64−3]《やな》を作って置いて、あくる朝それを見にゆくと、長さ二尺ほどの材木が※[#「竹/斷」、64−3]のなかに横たわっていた。それがために竹は破れて、蟹は一匹もかかっていなかった。
そこで、その材木を岸の上に取って捨て、竹の破れを修繕して帰って来たが、翌日再び行ってみると、かの材木は又もや同じところに横たわっていて、※[#「竹/斷」、64−6]を破ること前日の如くである。
「これは不思議だ。この林木は何か怪しい物かも知れないぞ、いっそ焚《や》いてしまえ」
蟹を入れる籠のなかへかの材木を押し込んで、肩に引っかけて帰って来ると、その途中で籠のなかから何かがさがさいう音がきこえるので、王は振り返ってみると、材木はいつの間にか奇怪な物に変っていた。顔は人のごとく、体は猴《さる》の如くで、一本足である。その怪物は王に訴えた。
「わたしは蟹が大好きであるので、実はあなたの竹を破って、その蟹をみんな食ってしまいました。どうぞ勘弁してください。もしわたしを赦《ゆる》して下されば、きっとあなたに助力して大きい蟹の捕れるようにして上げます。わたしは山の神です」
「どうして勘弁がなるものか」と、王は罵った。「貴様は一度ならず二度までも、おれの漁場をあらした奴だ。山の神でもなんでも容赦はない。罪の報いと諦めて往生しろ」
怪物はどうぞ赦してくれとしきりに掻き口説《くど》いたが、王は頑として応じないので、怪物は最後に言った。
「それでは、あなたの姓名はなんというのですか」
「おれの名をきいてどうするのだ」
「ぜひ教えてください」
「忌《いや》だ、いやだ」
なにを言っても取り合わない。そのうちに彼の家はだんだん近くなったので、怪物は悲しげに言った。
「わたしを赦してもくれず、また自分の姓名を教えてもくれない以上は、もうどうにも仕様がない。わたしもむなしく殺されるばかりだ」
王は自分のうちへ帰って、すぐにその怪物を籠と共に焚いてしまったが、寂《せき》としてなんの声もなかった。土地の人はこのたぐいの怪物を山※[#「操」の「てへん」に代えて「けものへん」、第4水準2−80−51]《さんそう》と呼んでいるのである。かれらは人の姓名を知ると、不思議にその人を傷つけることが出来ると伝えられている。怪物がしきりに王の姓名を聞こうとしたのも、彼を害して逃がれようとしたものらしい。
熊の母
東晋《とうしん》の升平《しょうへい》年間に、ある人が山奥へ虎を射に行くと、あやまって一つの穴に堕《お》ちた。穴の底は非常に深く、内には数頭の仔熊が遊んでいた。
さては熊の穴へはいったかと思ったが、穴が深いので出ることが出来ない。そのうちに一頭の大きい熊が外から戻って来たので、しょせん助からないと覚悟していると、熊はしまってある果物《くだもの》を取り出してまず仔熊にあたえた。それから又、一人分の果物を出して彼の前に置いた。彼はひどく腹が空いているので、怖ろしいのも忘れてそれを食った。
熊は別に害を加えようとする様子もないので、彼もだんだんに安心して来た。熊は仔熊の母であることも判った。親熊は毎日外へ出ると、かならず果物を拾って帰って、仔熊にもあたえ、彼にも分けてくれた。それで彼は幸いに餓死をまぬかれていたが、日数を経るうちに仔熊もおいおい生長したので、親熊は一々にそれを背負って穴の外へ運び出した。
自分ひとりが取り残されたら、いよいよ餓死することと観念していると、仔熊を残らず運び終った後に、親熊はまた引っ返して来て、人の前に坐った。彼はその意を覚って、その足に抱きつくと、熊は彼をかかえたままで穴の外へ跳り出した。こうして、彼は無事に生き還ったのである。
烏龍
会稽《かいけい》の句章《こうしょう》の民、張然《ちょうぜん》という男は都の夫役《ぶやく》に徴《め》されて、年を経るまで帰ることが出来な
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