かされてしまった。と思うと、彼は怒りの色をあらわした。
「鬼神のことは古今の聖人|賢者《けんじゃ》もみな言い伝えているのに、貴公ひとりが無いと言い張ることが出来るものか。論より証拠、わたしが即ち鬼である」
 彼はたちまち異形《いぎょう》の者に変じて消え失せたので、阮はなんとも言うことが出来なくなった。彼はそれから心持が悪くなって、一年あまりの後に病死した。

   盤瓠

 高辛氏《こうしんし》の時代に、王宮にいる老婦人が久しく耳の疾《やまい》にかかって医師の治療を受けると、医師はその耳から大きな繭《まゆ》のごとき虫を取り出した。老婦人が去った後、瓠《ひさご》の籬《かき》でかこって盤《ふた》をかぶせて置くと、虫は俄かに変じて犬となった。犬の毛皮には五色《ごしき》の文《あや》があるので、これを宮中に養うこととし、瓠と盤とにちなんで盤瓠《ばんこ》と名づけていた。
 その当時、戎呉《じゅうご》という胡《えびす》の勢力が盛んで、しばしば国境を犯すので、諸将をつかわして征討を試みても、容易に打ち勝つことが出来ない。そこで、天下に触れを廻して、もし戎呉の将軍の首を取って来る者があれば、千|斤《きん》の金をあたえ、万戸《ばんこ》の邑《むら》をあたえ、さらに王の少女を賜わるということになった。
 やがて盤瓠は一人の首をくわえて王宮に来た。それはかの戎呉の首であったので、王はその処分に迷っていると、家来たちはみな言った。
「たとい敵の首を取って来たにしても、盤瓠は畜類であるから、これに官禄を与えることも出来ず、姫君を賜わることも出来ず、どうにも致し方はありますまい」
 それを聞いて少女は王に申し上げた。
「戎呉の首を取った者にはわたくしを与えるということをすでに天下に公約されたのです。盤瓠がその首を取って来て、国のために害を除いたのは、天の命ずるところで、犬の知恵ばかりではありますまい。王者は言《げん》を重んじ、伯者は信を重んずと申します。女ひとりの身を惜しんで、天下に対する公約を破るのは、国家の禍《わざわ》いでありましょう」
 王も懼《おそ》れて、その言葉に従うことになった。約束の通りに少女をあたえると、犬は彼女を伴って南山にのぼった。山は草木《そうもく》おい茂って、人の行くべき所ではなかった。少女は今までの衣裳を解き捨てて、賤《いや》しい奴僕《ぬぼく》の服を着け、犬の導くままに山
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